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12日目 ホーチミン

投稿日: 2013年9月2日

20110204 ホーチミン2

 朝とはいえない未だ深夜の 1時半、目覚める。次ぎに 3時半また目覚める。そして 5時半。妻が化粧を始めていた。 僕も起きて洗顔する。朝食は、 6時丁度に5 階から 7階へ上がった。

 

 クルーズ初めての早起きとなった朝食だ。

 

 下船してツアーバスに入ったのが、 20分前。バスの中は、充分過ぎるほどに冷房が効かせてあった。ナイロンのジャンパーを着込む。隣のバスに、可児さんの姿を見た。

 

 7時になっても、我々のバス5号車は発車しない。誰かが出遅れたか、取りやめた。 7時5 分、バスは 21名を乗せて高速に向かって走り出した。本日は 3台が併走。

 

 同乗ツアークルーは、「ぱしびの宝塚」と自他共に許す山口ナオ子さん。マイクを握ると、淀みのないシャベリでツアーの行程を説明しだした。 トイレ休憩は 1時間半を経過した辺りだとのことに、後ろの座席から安堵の息が漏れる。  サイゴンツーリストのガイドは昨夜と同じハイさん。

 

 昨夜のネオン煌めく街は静まり返っている。この理由が、しばらくすると判明した。夜にも増してのバイクの大洪水。 何かの撮影かとカメラカーを探して、振り返りたくなるほどだ。大人 3人は違反で、大人2人と子供3人の5人は容認されているというが、横幅 30cmしか空けないままに、スピードを上げて走る。 ヘルメットに、防塵マスクという姿だ。幼すぎる幼児は母親が横抱きにして後ろに乗っている。バランスは、両脚大腿部でバイクを挟んでいるのだ。 驚く筋力、凄い勇気。目を見張る。ひと組でも二組でもない。多くがそうなのだ。
 そのイナゴの大群のようなそれに加えて、中型のヒュンダイのワゴン車が、追いつ抜かれつ、追撃ゲームでもしているかのように走っている。  ハイさんが、笑いながら理由を説明した。
 元旦が終わって、これから、故郷へ帰る集団なのです。お爺ちゃん婆ちゃん待ってる、年に 1度、みんな集まる。 ホーチミンに働きに来ている大半は、田舎から出てきてる。だから、バイクで帰る。荷物は、もう前に送ってある。だから、身体一つで走っている。 しかも、今年のテトは、比較的休みが長い 1週間なのだそうで、この大移動が起きている。
 高速道路に入るとさすがに、バイク集団はいなかった。速度を増す。この道路は日本の技術に依るところ大だそうだ。乗り合いバスやワゴンは、座席が満員だ。 我々の観光バスの座席に余裕がありすぎるのが、申し訳ない気持ちにさせられる。
 そういえば、妻が出掛けたアモイのツアーバスは、大型ではなく、サスペンションが硬く、かなり疲労感があったという。理由は、春節で帰省する中国人のために、多くの大型バスが貸し切られてしまったそうだ。
 ベトナムに日本のヤマトが入って来たら、この季節の大移動は、一大ビジネスチャンスになる。但し、年に一回のチャンスから、その体験が慣れていけばだが、そのための経済基盤如何に依る。
 ホーチミンの人口800万人に対してバイクは800万台だとも、人口の 10%が所有しているとか、数字の把握は曖昧な説明だった。 特にホーチミン市での需要は、通勤ビジネスの足であるから、買わざるを得ない。そして、その70%は、ホンダだそうだ。中国製のバイクも一時期購入されたが、故障が不評で次第に販売力を失っていったようだ。
 確かに、これだけ必要品であるからには、頑強で故障の少ない耐久力のあるバイクでありたいのは、よく解る。
 ホンダの一般的クラスで15万円、高級クラスでは、 70万円という価格帯だ。
 免許は18歳から取得できるが、50ccなら無免許でも乗れる。このベトナムから、世界的なオートバイレーサーが出ても不思議ではない。 なぜなら、幼児の頃から、あのスピード感覚に身体が慣らされている。それも、毎日に近い頻度数で、動体視力も鍛えられているからだ。ガソリンは、リッター 70円である。
 都市での生活は、一流のビジネスマンは 5万円の月収を得るが、一般的には8000円ほどで、部屋代、電気代、食費などを含め、今では 1万円以上かかるほどに、苦しくなってしまった。

 

 道路標識は、昔は漢字だったが、今はフランス統治以降、横文字になったそうだ。 自分たちも、名前は漢字で持っていますと、ハイさん。「海」と書く。日本語教師の免許を持つ妻が、すかさずこう言った。 「そうよ、中国から伝わってきた当時も、ハイと発音されていたのに、日本人の受け止め方は、カイと聞こえたのよ、聞き違えて」。
 ホーチミンには、中華街があるが、中国人は 6万人が住んでいる。 因みに、中国語は四音だが、ベトナム語の声音は六音なので、有り難うを意味する「カムオン」も、発音が違えば、 乞食言葉で、「なにか恵んで下さいよ」という憐れな意味に変わるから、チュウイが要ると笑わせた。日本語と同じベトナム語があるという。 「注意」は、「チュウイ」、「治安」は「チアン」なのだそうだ。バスの中では、感心する声が出る。ハノイが標準語となるのだそうだ。中部地方の食べ物は辛く、南部は野菜が中心で食べやすい。
 今、走っている地域は、 90%が農業で、米はタイに次いでメコンが 2番目にあるという。 ハノイより北は寒く、春夏秋冬の変化があるが、南部は平均気温が25~27℃で、 5月から7 月までが雨季で、後は乾期だ。このため、米は「三毛作」が可能だというから驚きだ。

 

 刈り取った畑と深い緑の稲田が交互に続く。その中に、ぽつんぽつんと白い小さな石がある。石だと思ったら、墓地だった。 その畑の地主が亡くなった時は、農業に就いて他界したのだからと、土葬にして墓を造るのだそうだ。夫婦、親兄弟、一人一人が一つの墓だそうで、そういえば、いくつもそれのある畑が見られる。 桃色の墓、屋根のある墓。おおきい墓。それらは、裕福かどうかで決まる。 高速道路が走ったことで、夜間走行のライトの光が稲の生育に問題があることが判り、売って土地成金になる農家、稲に変わってバナナを植える農家、アヒルの養殖?と転身する農家が出てきたそうだ。

 

今日のメコン川遊覧ツアーは 一人5829円。網の目のような州に船が入り込んでいくというのは、個人旅行では行く気にならないだろうからと、申し込んでいた。 河を遡るのは、かつて、セーヌ河を海から遡ったこともあるし、ミシシッピー河をニューオーリンズまで遡ったこともある。 数日後には、バンコックから水上マーケットにも小舟で訪ねる予定になっている。

 

 田園風景の中を真っ直ぐ延びる何号線か知らないが、国道だろう。狭い道路をバイクがひた走る。 渋滞という風景では亡い。バイクラッシュという言い方のほうが上京が判りやすいだろう。砂煙というか、排気ガスというか、辺り一面まき散らしながら、 とにかく、野牛の群れのようにバイクが河となって流れて行く。二人乗りは当たり前、三人、四人乗りのバイクがひしめき合って走っている。道路を横切る人も慣れたもので、 悠々と歩き出すと、バイクは自然に間隔を開けていく。

 

道路端にぽつんぽつんと適当な距離感でフォーを食べさせる店がある。ホンダと書かれた看板が立ててあるところは、どうやら、故障を成してくれる修理屋で、タイヤも売っているし、飲み物も売っている。 ハンモックをずらっと吊してある店は、仮眠場なのだそうだ。 乗用車も定員オーバーのクルマが多い。やたらに多いのがバスだ。狭い道路にバスが追いつ抜かれつしながら、めまぐるしい。正月休みを利用して、帰省する人たちだそうだ。 故郷への土産も持てるだけ持っての大移動なのだ。この時期の中国と同じだ。そして、それだけ、ホーチミンへの出稼ぎ労働者が多いということなのだと観て下さいとガイドが説明してくれた。 だから、今回の我々のバスの確保も予約に苦労したそうだ。

道路標識に大きな文字が見えてきた。ミトー(美都)だ。美しい都市という意味だ。 大きなゲートをくぐった。
メコン川遊覧船の船着き場が出て来た。
ちょっと、インドのコーチンを思い出した。

 

にこやかな顔の男性が飛び出して来た。「ミナサン、ワタシハ、森進一デス」
いきなり、笑いを誘う自己紹介だった。日本人観光客からつけられた、ニックネームだそうだ。客が笑ってくれるので、本人は気に入って使っていると。

 漢字で書くと、武士の「武」、成功の「成」、そして才能の「才」ですと、ここでもまた笑わせた。
 母親に感謝だね、いい名前だからと言ったら、「ハイ、父親ニ感謝、カンシャデス」と返してきた。
 日本語は難しい。3年では足りない。漢字は「音」「訓」、それにカタカナ、ひらがなと3種類もあるから、頭が真っ白になる。ワタシの顔はクロイデスケド、と。 

 年配者の多い、乗船客は笑い転げながら、船に乗り込んだ。
 遊覧船と言うより釣り船のような体裁だ。
 濁っているが、河の流れは速そうだ。所々に、魚の網が仕掛けられている。 それを縫いながら、船は斜めに河を横切っていく。川幅はおよそ、3kmという。

 島と呼ばれる中州がいくつも点在する。そのひとつの島で小舟に乗り換えた。たわわなバナナの木があちこちに植わっている。

 今度は、渡し船のような底の浅い細長い船,タンバンだった。縦一列になって座る。何隻にも分乗した。



いよいよ、狭い水道に入り込んで行く。生活のための小舟が岸にシバリ着けられている中を帰る船と交差する。
 ベトコンの拠点になった場所だと聞かされると、もの悲しい風景に思えてきた。

 幾度もの分水路を進んで、タイソンという島の船着き場に着いた。ここから、しばらく、原住民のように歩く。
熱帯植物の花が鮮やかだ。果樹園の島だそうだ。道の端に、もぎたてと思われるフルーツがテーブルに無造作に置かれ、売り物になっているようだが、売人はいない。のどかなものだ。

 

急に開けた庭に出て来た。奥に何棟も家屋がある。ココナッツが山と積まれてある。 キャラメル工場だ。何人もの女性が、リズミカルに手を動かしている。

 塊掛けているキャラメルを見事な手さばきで、分割し、包装紙にくるんでいる。 男性は、大きな鍋に入った液体をかき回している。 手招きをされて覗くと、徐々にそれが固まっていくのが判る。 目を転じると、ココナッツの削りブリ状態のものを釜で煮ている。

そうか、プロセスを逆に観ていたのだ。

 

一口食べて、と差し出されたキャラメルを試食させて貰う。

養蜂もしていた。蜂蜜を瓶詰めにして売っている。味見を下が、確かに、素直に言って、濃い甘さだった。

衛生面が気がかりだと、ココナッツキャラメルよりも蜂蜜のほうが見る間に売れていった。

 

蛇はいるかと訊くと、昔は多くいたが、いまは、食べてしまい、数は減ったと、こともなげに返された。観たいなら、庭の端っこの檻にいるから、観ていくといいと笑いながら、指さした。 

 

は虫類の大嫌いな僕は、近づくことはなかったが、それでも、村の人は、ニコニコしながら首に巻き付けてこっちにやって来た。大袈裟に手で拒否して、キャラメル工場を離れた。 細長い水路の脇を歩くのだが、どうにも気持ちが悪い。樹木にぶら下がっていやしないかと、早足になった。 別の場所で、ベトナム民族音楽の演奏と踊りが出迎えてくれた。もぎたてのフルーツを出された。さぞや、美味しい過労と思うのだが、カリウムを摂取してはならない腎不全の身では、眺めるだけだった。
広場に待っていてくれた車で、船着き場まで送ってくれるようになっていた。つまり、観光客用に、往きと同じコースで、バス乗り場まで帰る。

 

ラクチュウ大橋を走り、うとうとしかけたときには、ホーチミンの町へ帰り着いていた。 バスから降りると、埠頭には、昨日オーダーした人に、テトで縫い子が少ないのに、アオザイの衣装が時間内に縫われて届いていた。船から走り出して来た人は、注文をした女性だ。 受け取り顔が、浮き浮きしていた。恐らく、インフォーマルで装うのだろう。

レストランは、我々のために昼食時間は延長して待ってくれていた。 ランチは、とろろ蕎麦だった。肉巻き飯も赤だしも要らないが、蕎麦のお代わりが欲しいが、と打診してみた。やはり、にっぽん丸のように、二人前で出してくれた。

11階プールサイドで、セイルアウエイが行われるという。先回のニューイヤークルーズでは、寒くて出来なかったから、我々にとっては、初めての経験である。バンドが演奏し、バーではシャンパンと水割り、それにジュースが振る舞われていた。つまり、船客を上の階に集めて、岸壁にいるツーリストガイド社のみんなに手を振って例を言おうという訳である。しかし、内部で楽しむ音楽が流れていて、岸壁にいる人たちには、なんらメッセージを送っているわけでもない。これは、にっぽん丸のボン・ダンスのほうが、見送りの方々、税関の人たちへのお別れと有り難う、のメッセージが伝わりやすい。相手国への印象は、おそらくにっぽん丸のほうが好感を持たれるのではないかと、気になった。
それにしても、打って変わって、眩しいくらいの日射しと気温になっていた。ようやく、東南アジアにいる気分になれた。三角の笠を被った船客がちらほら。軽くて涼しいんですと満足げに話している。
テーブルから手招きが見えた。菅井夫妻だ。よく観ると、荘輔さんのTシャツが新しい。街に出たと美子さん。彼らは、僕らが早朝からメコン川に出たことを知らされていなくて、XXXで探してしまったという。妻が話していなかったらしく、申し訳なかった。

13時、ぱしふぃっくびーなす号は、船首と船尾をサイゴン川で大きく旋回して入れ替えた。

訪ねることもなかったホー叔父さんの記念館が遠ざかる。メリン広場手前のマンダリンホテルは、これからもレトロな威風堂々の建物でいるだろうが、ヒュンダイのタワービルは、来年には、ホーチミンのシンボルとして同化していることだろう。上海の森ビルのように。
メコン川は、浅瀬で座礁しかねないので、明るいうちに下って外洋に出る。

マングローブの河口は、船客には見飽きたのだろう、プールサイドデッキには誰もいなくなった。
妻は、2 回目の洗髪に出掛けた。僕は、部屋で「ザ・バンク(落ちた巨像)」という 2009年作の洋画を観ることが出来た。国際銀行のIBBCに不審な資金の流れがあると追求するのが、NYの捜査官ルイで、主演はクライヴ・オーウエェン。
今読んでいる文庫本、A・J・クイネルの「パーフェクト・キル」での元傭兵クリーシィに重なる。このシリーズの面白いところは、マルタ島から先のゴッツオ島が拠点になり、今日のサスペンスはイスタンブールが密会の場となる。いずれも、東西の文化の接点がミクシングされるところに怪しげな密約が始まるのか。そういった意味では、アメリカ、フランス、イスラム、日本、ソ連、中国とコンフューズした此処、ホーチミンも強かな街に見えてくるから不思議だ。
僕の腰も、なんだか、固まりだした。椅子に座ってしまうと、腰が伸びないままになる気がして・・・・。筋肉が硬くなっている。それでも歩いたと言える歩数は僅かに4871歩だった。


予約していたマッサージルームに向かった。
マッサージは、「グローバル治療院」からの派遣だった。
母体はリンパマッサージを主とする「グローバルスポーツ」で、アスリート、特にオリンピック選手に同伴していくほどに、施術が充実しているチェーン店で、当時の勤務先から、ブックセンターの裏の八重洲店へは何度も通ったものだ。
「にっぽん丸にも同じグローバルから派遣されていましたね。若い男性の人は、大井町から綱島へ移動したらしいですが・・・」と、名前を忘れてしまったので、話は途絶えた。
今日のメコンツアーは、「宝塚」の山口さんがスタッフだったと話した。なかなかに強いキャラクターを持っている人だが、マイクを持つとシャベリが巧いですね、CA(キャビンアテンダント)出身のように思えましたが、と振ってみると、「あの方は、年齢不詳、経歴不詳なんですの」と、上手く交わされた。
同乗の山本さんも、スタッフ紹介のプレゼンテーションでは、マイクを持つと、余裕があり、間の掴み方も堂々としてましたよと賞めると、実は、京都で学生の時、バスガイドをしたことがあると話してくれた。
私はアオザイが好きで、オーダーして来ましたよと、インフォーマルでの着用を楽しみにしていた。
揉みほぐされて、急に眠くなった。

 

「ライトオペラ&ミュージッククラシック」は、今夜はパスとした。
23時にはベッドに入った。腰を労りながら、そろりと身体を横にした。

カテゴリ:アジアクルーズ日誌

11日目 ホーチミン

投稿日: 2013年2月20日

20110203 ホーチミン

 

 22時半にはベッドに入っていた。だからか、 真夜中の2時に目覚めてしまった。二度目に起きた時が6時。 早朝尿の塩分検査は6.3。昨日よりも上がってしまったが、この原因はわかっている。おそらく、昼食のカレーだと思う。ルーをすべて食べてしまったからだ。

 7時になっても操舵室の船尾ビデオカメラは、行き交う貨物船の姿を見せてくれるに過ぎない。朝靄なのか、ガスっているのか、水平線は曖昧に朧だ。 まだ河口のほんの前だ。夜に浅瀬の多いメコン川を遡るのは、危険だということからだが、離岸出航する時も、陽のある午後には離岸する。

 早いが、7 時20分、朝食に出る。メコン川の変化する風景を見逃さないためにも早めの朝食がいいとした。既に菅井夫妻はテーブルに着いていた。同じ考えで来ていたという。 体感温度を確かめると共に、船首で河口の景色を撮っておこうとデッキに出た。カメラを持ったご婦人に、スエズ運河は飽きもせず白湯を見ていましたが、パナマは飽きましたと。此処での評価は訊かずじまいになった。

 

 生暖かい気温であるが、キャプテンアナウンスによれば、曇天だが 36℃になるという。 10枚ほどシャッターを切って、部屋に戻る。

 

 船はサイゴン川に入った。旧正月だからか、ベトナムの国旗が川を遡る岸辺にも、小さな小舟にも旗めいている。真っ赤な色が誇らしげに、次々と目に飛び込んでくる。小さな旗なのに活き活きして見えるのはなんだろうか。発展著しい自分の国の自信のように思える。毅然としたホーチミンの背骨を国民が感じ取っているのだろうか。そう思えるのは、船首の先に見える、工事中の何棟もの高層ビル群がそう思わせてくれている。ベトナム最大の商業都市ホーチミン。

 

 客船の埠頭というよりは、貨物船の埠頭であろう。接岸する岸壁には、アオザイを来た若い女性たちが三角帽子を被って、ずらりと並んで待っていてくれた。手の先には風船が何個も泳いでいる。イミグレの奥にはテントが張られ、関係職員の他、土産物屋が開店準備に忙しく立ち回っていた。そういえば、今クルーズ、初めての歓迎セレモニーではないか。中国の3寄港地では見られなかった。船旅が初めての船客は、大いに有り難がったのではないかと思う。 
 音楽が聞こえてきたのは、朝食の時間になっていた。レストランがざわついた。8階のプロムナードデッキにカメラを構えて撮る人、11階のプールサイドに上がった人。 3回も衣装替えをして、男女が踊ってくれた。拍手は起きたが、にっぽん丸との距離より高い。彼女たちは、上を向いて手を振ってくれた。

 

 シャトルバスは、サンタマリア教会へ走った。有名な郵便局の前である。街は、旧正月を迎える飾り付けで華やかだった。大きな天蓋の郵便局は、戦火に見舞われなかったのだろうか。歴史的な建造物である。世界時計もどっしりとして、威厳を感じる。19世紀にフランス当時時代に建てられたという。

 

 左右の狭い土産物店を抜け出して、目抜き通りであるドンコイ通りに入る。オフィスビルは閉じているのだが、そのビルの表玄関には各社猫年のイラストや大型の人形で、思い思いの飾り付けがされていて、その前で、家族が、恋人たちが記念写真を撮りあっている。ディスプレイの中にさりげなく企業名が入っているのだ、誰も気にしていない。気に入った猫なら、その年の記念写真に写り込んでいく。大層な経費をかけても、それが企業の狙いでもあるのだろう。

 

 さすがに、繁華街は正月休みの店が多い。働きに出てきた地方出身者が、一斉に帰郷するから無理もない。日本のお盆休みに近い。船側が交渉して開店して貰っている店があるのだが、通常よりも価格が高く設定されているらしいというのが、下船前の噂だった.

 

 しかし、各店舗がそれほどに器用に値札を変えるわけもなく、そこは半額に値切ることから始まるベトナムらしい交渉術に、尾ひれが付いたに過ぎない話と受け止めた。それを裏付けるのは、街に出て来ている人の数である。欧米人も多いし、一般市民の人出も多かったからだ
米ドルが使えることから、ベトナムの現地通貨ドンには両替しないままに下船した。

 

 スナップを撮り、突き当たりのサイゴン川まで歩いてみた。雑誌で見慣れた、レトロなマジェスティックホテルがあった。玄関の上5階の高さを覆うほどの大きな猫が飾られてあった。 此処で珈琲でもという計画だったが、一緒に歩いていた菅井美子さんが、脚の痛みを訴えて、途中で休んでいるので、メリン広場には向かわず,来た道をまた戻った。

 

 途中、小売店が一つ屋根に集まったショッピングビルに寄った。シルクのスカーフが目に付いたからだった。色の鮮やかさに釣られ、1枚19万ドンのシルクのスカーフを買った。荘輔さんも、草木染めをするための素材として白のスカーフを買った。互いに値引きさせた。先を急いで、休んでいる美子さんの姿を探した。

 

 ベンチに座っていた美子さんを促して、角のカラベルホテルでお茶を飲むことにした。
1階は満席だった。ウエイトレスは、上階を指さした。エレベーターに乗った。最上階で降りた。更にもう1段、階段を上がった。

 

 そこには、オープンテラスのスペースもある、開放的なカフェバーがあった。ベトナム珈琲を妻と頼んだが、菅井夫妻は「サイゴンビール」だった。

 

 1階のティルームは満席だった。ウエイトレスは、笑顔で上階を指さした。二度天井を指した。エレベーターに乗った。最上階まで上がった。降りたフロアーには、「サイゴンビール」のサインが上を示していた。更にもう1段、狭い階段を上がってみた。そこは、オープンテラスもある開放的なカフェバーがあった。窓際のベランダに座った。僕はベトナム珈琲を妻と頼んだが、菅井夫妻は、勿論「サイゴンビール」だった。

吹き抜ける風に頬を撫でられながら、ゆったりとしたひとときを過ごした。此処が、ベトナムだと言うことを忘れるほどに、心地よい雰囲気だった。

 

 

 見下ろすと、東洋のプチパリと言われる佇まいが理解できた。フランス統治下の面影があるからだ。絵葉書のような風景があった。いつかの年賀状になるだろうとシャッターを押した。コンチネンタル・ホテルの先に、尖塔が見える。今日のスタート地点、サイゴン大教会である。

 

 休んだことで、美子さんの脚の痛みも治まったようだ。花祭りをしているグエンフェ通りを歩いてみたいと言いだした。大きな通りは、サッポロのテレビ塔大通りのように、一面が花で彩られ、正月の晴れ姿をしてはしゃぐ家族の姿を見ることが出来た。此処にも、様々な猫のモニュメントがあった。ベトナムの干支で、猫の年なのだ。人民委員会庁舎前には、かのホーチミン像が立っている。ベトナム革命の指揮者であり、初代ベトナム民主共和国主席。

 

 ホーチミンは、儒学者の息子として、論語も読めたが、官吏になる学校でフランス語も学んだ。21歳の時、フランス行きの貨物船の見習いコックとして乗りこみ、パリに入国するも、学校の入学許可が下りず、船員として、アフリカ一周、ニューヨークからボストン、アルゼンチンと南北アメリカを周り、フランスのルアーブルで生活した後にロンドンのホテルの厨房にも勤めた。その後、フランス植民地からベトナム独立という、民族問題にコミットしていく。
第二次大戦まではグエン・アイ・コック(愛国)の変名を使っていた。耳だけで聴くと、“哀哭”という文字も浮かぶ。人民からは、ホー伯父さんと呼ばれている。

『国家の10年を思うなら、木を植えなさい。国家の100年を思うなら、人を育てなさい』
ホーチミンの学んだフエの名門高校、グエン・タッ・タンの校舎には、『賢人は国の源の力』と書かれているという。
耳の痛い言葉だ。日本のいまは、どう答えられるか。

 1975年4月30日。大統領府であったこの建物のフェンスを破った解放軍が30分後、屋上に旗が翻った。「サイゴン解放」と「サイゴン陥落」。オペラ「蝶々夫人」が下敷きだと言われている、ロンドンから始まったあのミュージカル「ミス・サイゴン」を思い出した。

その人民委員会庁舎前からレタントン通りを右に歩き、サイゴン教会前で待つシャトルバスに乗った。
120枚撮ってきた。そして、歩いた歩数も11148だった。腰痛がひどくなった。
行きそびれたペンタイン市場だが、たぶん正月休みで店は閉めているだろう。

船に戻って昼食をした。夜は、再びツアーバスで出るから、休むことにした。
シャワーを浴びて、ポロシャツに着替え、18時には、再び下船した。
「ホーチミンの夕べ」ツアーは、5号から7号車までの三台のバスで出掛けた。
現地の旅行社のガイドは、ハイさんと言った。
「ハイさん!」「ハイ!」バス車内は、どっと笑い声に包まれた。
毎回、これなんだろうなと思った。

 

 水場人形劇の劇場は、華々しいネオンで彩られていた。
郷土芸能らしく、館内の案内人もそれなりの衣装を着て迎えてくれた。
館内は、生け簀のような舞台に、黄土色した水を満たしてある。
仕掛けを隠す効果もあるのだろう。
民間伝承の芸術、元来は、ベトナム北部の畑の溜池に舞台を組んで、民話を伝承してきたものだそうだ。

 

 観客席は、観やすいように勾配のきつい階段教室状になっている。
台湾人の団体と我々日本人で満席になるほどのキャパだった。
観光客がいつも気にするフラッシュ撮影もビデオ撮影も許されているのは、嬉しいのだが、座席の中央に座った大柄な女性の頭が、丁度、舞台の中央に黒いシャドーを作り、思うようにシャッターが押せない。

民話のショートプログラムを数本観ている内に、人形の動きに変化の無いことが判ってきた。幕の裏からの遠隔操作であろう。登場する人物や動物に変化を持たせてあるが、同じ動作の繰り返しである。むしろ、充てセリフと充て歌をする楽士の見事さに感心してしまった。

 

 フィナーレには、人形師が姿を現した。腰までの水位だった。狭いステージで、多人数が小手先のアクション、かなりの運動量である。場内は大きな拍手が長い間、響いた。

夕食は、昼間の花壇と猫の飾りで埋まった交差点の先に見えたレックスホテル。レックス・ロイヤル・コート・レストランだった。

食前にビールか、コーラか水がサービスだというので、ベトナムビール「333」を飲んでみた。古い時代の苦味のついた軽いビールだった。ところが、ここで、日本酒を所望する船客がいたのには驚いた。ベトナム料理店である。困惑したツアコンは、それでも時間をかけて手配したのだろう、何処かから都合をつけてきた。日本酒は何処にでも売っているだろうと、鼻から決めてかかっているのはどうかと思うが、こうなると、ツアコンは、ワンカップでもバスに運び込んでおかないと、貴重な時間を取られてしまう。

料理はというと、レモングラスにつくね状に錬った肉を巻き付けた揚げものと、揚げ餅に鶏肉の照り焼き、それに海老の刻みご飯とフォースタイルの麺碗だった。

 

 中央のステージでは、4人組が伝統楽器で、日本の歌謡曲を奏でてくれていた。入れ替わりに、5人の女性による民族舞踊を舞ってくれて、異国情緒は盛り上がった。
デザートはカットされた西瓜が出た。が、カリウムの多い生の果物は僕は口にできない。お茶はジャスミン茶だった。

夕食を終えて、外に出ると、道路は、煌々と流れるヘッドライトに目を奪われた。
幼児を挟んで親子5人乗りのオートバイが当たり前のように走り去る。洪水のような単車の流れ。500ccなら無免許だそうだ。中学生らしい女性から母親まで、まるで、自転車のような気軽さで、突然、日本の「暴走族」がロケに集められたかのような、凄まじいバイクの轟音とクラションに、我々は、呆然と立って、互いに顔を見合わせていた。そう、「暴走族」を知っている世代ばかりだからだ。一呼吸あって、みんな懐かしそうに、にたりとした。

 

 このツアーは、ナイトコースである。ライトアップされたサイゴン大教会と中央郵便局の夜景を撮れるようにと停車した。
昼間、気になっていたサイゴン最大の高層ビルが判明した。ヒュンダイのビルだった。68階建てだが、未だ建設中なのだそうだ。ライトアップされたユニークなデザインは、見事にシンボリックでホーチミンのランドマークになっていた。光の流れの中を遅々と進まない大渋滞を経験しながら、埠頭に戻った。

 

 帰船は22時になった。今日一日で12115歩だった。
年に一度しか経験できないテトの日に、身を置いたことを忘れないだろう。

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