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世界一周クルーズ日誌

060606 ニューヨーク1日目

投稿日: 2013年10月1日

朝、「7時40分、自由の女神を通過」というアナウンスが流れたので、10分前に4階に出てみたが、既に女神は船の後方になっていた。慌てて後部デッキへ走ったが、300mmレンズでも、女神の向きは変えられはしない。正面は撮れないままになった。残念。

 

93mの自由の女神は、左手に独立宣言の日付を刻んだ板を持ち、右手に松明を掲げている。リバティ島。パリ万博博覧会で造られ発表された、自由の女神像。銅の衣は、パリ万博で建てたエッフェル塔の建築家エッフェルがデザインしたのだという。1878年、我が国の薩摩焼酎が、薩摩の武士によって持ち込まれた年である。

 

 

 緑色に見えるのは緑青のせいなのだ。フランスから贈られることになった女神像は250トン。いま越えてきた荒波の大西洋を214体に分解して海を運ばれてきた。その開催年から100年も前、1776年にイギリスから独立できた裏には、フランスの軍事援助があったからだ。アメリカ合衆国の独立を記念すべく、フランスは、この女神像を贈ったのだ。因みに、フランスには、シテ島に1体、ほかに名前を思い出せないが、有名な公園の中に1体ある。また、ここニューヨークには、コロンバス・サークルの先、セントラル・ウエスト・ストリートとブロードウエイの間、62辺りのビルの屋上に立っている。いや、15年前はあった。ジョン・レノンの住んでいたあのマンションの近くだ。

 

巨大な女神像46mを載せる台座部分の費用調達は、アメリカ市民の寄付を募ったのだが、その建造に時間がかかり、像全体の姿は1886年にずれ込んだ。この自由の女神が、今年の10月に完成から120年目を迎える。しかし、同時多発テロの後、王冠部分へは、観光客立ち入り禁止となっている。おそらく今後もしばらくは、観光客が上がれないだろう。

 

 あのペリー提督は、蒸気船の時代、こういうふうに海からニューヨークに帰って来たのだろう。マシュー・カルブレイス・ペリーは、それより約90年前、ロードアイランド州ニューポートで海軍大佐の三男として生まれた。ミシシッピー号、ミズーリ号などの蒸気艦建造に力を尽くしことで、「蒸気海軍の父」と称えられていた。そのミシシッピー号は、黒船として日本人に知られるところとなった。彼が、日本についての情報を猛烈に収集したことは案外知られていないのではないか。シーボルトの『日本』を始め、日本人や、日本の地理、歴史本を読み込んで日本に向かったという。

 

彼が帰国後に書いた『アメリカ艦隊シナ近海および日本遠征記』には、以下のような、今日を見事なまでに見抜いた日本観を持っていた。

 

「私は、世界のどの地方においても、ヨーロッパにおいてすら、日本人のように気取りのない優雅さと威厳を備えた国民を見たことがないと断言する。ことに貴族(武士)の人々の物腰は、見事であった」「実用的ならびに機械的分野の諸技術において、日本人は卓越した手先の器用さを持っている。彼らの道具の粗末さや彼らの不完全な知識を考えあわせるとき、彼らの手工業的能力の完全さは驚くべきものだと言わねばならない。日本人の手工業者たちは、世界のどこの手工業者にも劣らず熟達しており、この国民の発明的能力が自由に発揮された時には、日本人は、いつまでも最も成功している工業国民に遅れをとったままではいないであろう。他の諸国民が成し遂げた物質的進歩の諸成果を学ぼうとする彼らの好奇心と、それを自分の用途に適応する意欲は、もし、現在、彼らを他国との交流から締め出している政府の方針が緩められるとすれば、この国をたちまち世界の最も恵まれた国々と並ぶ水準までに押し上げるであろう。ひとたび、文明世界の過去および現在の技能等を手に入れたならば、日本人は将来における機械工業の成功をめざす競争に強力な競争相手として登場するであろう」(「ペリーの生涯」横須賀市立中央図書館 今原邦彦館長)

 

 

現代のニューヨーカーにペリーの写真を見せると、ナポレオンかと言われるほど、知られていないとは、TV番組で観た話だが、いま、僕らも、英国から大西洋を渡って新大陸に近づいたピューリタンほどではないにしろ、あの当時の移民してきた人々の気持ちにならないと、目の前の、この瞬間が勿体ない。

 

朝靄に煙るハドソン川の向こうには、微かにエンパイア・ステート・ビルが覗いている。戦艦がぼんやりと見えてきた。この河畔のすっきり整備された様子に驚かされた。サークルラインのマンハッタン一周や半周のクルーズ観光船の乗り場が見えてきた。

 

やがて、ピア90に近づいた。見慣れた客船が停泊している。ピ、ー、ス、ボ、ー、トと読めた。艦載機を載せた戦艦のそばに、ピースボート。なんという妙な取り合わせだ。

 

デッキに反町がいるかもしれないと、300mmのレンズで見るが、人影はまばらだ。既に、大方は下船してしまったのだろうか。ピースボートには、船客が900名乗っている。にっぽん丸の最大定員は532名だが、今回は300名。つまり、ピースボートは、その3倍のパッセンジャーだ。

 

朝食を済ませて、最上階から順次、各階の宿泊ルームナンバーがアナウンスされ、イミグレに降りていく。終日ツアーに参加するのだが、なかなか順番が来ない。焦る。ようやく3階の船客に呼び出しがかかった。下船したものの、長い列が出来ている。オーバーランドに出掛けるナイヤガラ組には荘輔さんがいる。まだ通関できていない。オーバーランド組は、これから未だ空港へ向かう時間があるから、気が気ではない。大型外国船で安いキャビンの客は、下船するだけで、かなりの時間を費やしてしまうと言うのも解る。

 

我々のツアーバス出発時間10時は、既に越えてしまっていた。それでもバスは出発できないでいる。階層順での呼び出しは、時間的にも非効率的で、見直すすべきだと思った。階層では遠出の人を選別できるものではない。目的に合わせた括りこそ、円滑に送り出せるものだ。下層の1階船客がオーバーランドツアー参加者だった場合でも、高額の5階の船客を優先するのが、果たしてサービスだろうか。この類いは、今クルーズの日誌の中でも時折、書き残した。自由行動を選択した人は観光の時間配分も難しいので先に解放してしまい、ツアーで出掛けるグループは予め、船内で集合して一団で下船して、ガイドにバスの速度と道路を勘案させる。

 

ツアーバスも、目的地に早く着かせる1号車は、歩きの遅い乗客を、5号車は、健脚、もしくは若い客層に留意して誘導する。老若男女の混合で見物することで、ガイドの歩速度や、声の小ささにクレームが出ることも少なくなるのではないか。そうすることで、ツアーガイドの気疲れも少なくなるのでは、と、待つ間、考えていた。

 

イミグレは、5カ所の検査官が担当した。周囲の雰囲気は、ものものしい。

 

人差し指の指紋を採られ、両眼の写真を撮られた。テロ以降の厳しさとはいえ、指紋を強制的に採られることに反対する人の気持ちも解る。これらの膨大なデーターをスーパーコンピューターで選別するのに、アメリカの組織は至極短時間で可能だという。因数分解でもするように該当者の特徴をポイント数で選り分けて行く。

 

90番ピアの隣のピースボート、「トパーズ」号の甲板では多くの若者が整列している。避難訓練だろうか、船腹に救助艇やボートが引き下ろされている。

どこかに、反町がいるはずだ。甲板の人の背中に大声で呼びかけた。

 

「ソォ~リイ~マア~チィ~!!!」

「ソォ~リイ~マア~チィ~!!!」

「ソォ~リイ~マア~チィ~!!!」

かすかに、背中の若者が桟橋の下にいる僕のほうを見やるのだが、また背中を向けてしまった。突然の僕の行動に、にっぽん丸の船客は、驚いている。今度は、ボートの男に向かって呼びかけた。聞こえているようだが、さして反応らしきそぶりはない。

 

これ以上はみっともないなと、諦めてバスに乗り込んだ。

 

「学生さんはいましたか?」事情を知っている人から声を掛けられた。

 

「いや、声が届かないようです。この騒音では、僕のような、ダミ声は掻き消されますよね」

 

2台の終日観光のツアーバスが出発したのは、11時を回っていた。これでは半日観光だと不満の声が出始めた。税関士は5人、5ゲート。船客は200人として40名担当というのは、エアポートなら少ないゲートだとは言えない。むしろ、この時間を見込んでの出発時間というツアーの組み立てをすべきではなかったか。

 

 

今日の同伴ツアースタッフは、武田君と田実君。二人は、イベントスタッフであって、ツアースタッフは乗り合わせていないのだ。現地ガイドは、藤木君という。乗客は22名。

 

バスは、チェルシーからブロードウエイを南下してソーホーを通り過ぎ、ウオール・ストリートのバッテリーパークで下車した。自分が歩いた当時の面影は消えて、新しくなっていた。停車する場所が此処しかないのだろうと、ガイドに促されて降りた。此処から自由の女神が遠望できますと、降ろされた。しかし、これもおかしい。

 

我々は、エアポートから来た観光客ではない。今朝、自由の女神を目前に横切ってきた船の客である。新しく観光用に創られたらしいバッテリーパークのゲートをくぐる。中央の芝生では、地元の若い家族連れが、ベビーカーから子供を降ろして、遊ばせている。町内会の集まりのような風景があった。点景でしかない自由の女神を背中に記念写真を撮る方もいらしたが、おそらく、人物主体では、女神は小さすぎて判っただろうか。我々は、と言えば、トイレ休憩の場に過ぎなかった。

 

ほんの少しの時間で、バスは、グラウンド・ゼロへ向かった。少し歩かせれば、ウオール・ストリートのフェデラルホールだ。バッテリーパークよりも、むしろ、ホール周辺を歩かせれば、NYSE(ニューヨーク・ストック・エクスチェンジ)から、世界を動かしている取引の現場を見せられただろうし、T字路の突き当たり、フェデラルホールの階段にあるワシントンの銅像と記念写真が撮れただろう。階段に座っていれば、慌ただしく行き交うディラーたちの姿も目に出来たはずだ。映画「ウオール・ストリート」の男たちを、だ。ウオール・ストリートを歩かせるからこそ、世界貿易センターのポジションが意味を持ったのに、バスは、グラウンド・ゼロへ走り抜けた。

 

この街、ウオール・ストリートと僕の関係は、アパレルメーカー「ニューヨーカー」の広告戦略を組み立てる時、調べ始めたのが最初だった。が、プレゼン終了後にクライアント側から広告制作の中止を言い渡された。次の機会は、再びアパレルメーカー、「カインド・ウエアー」だった。提案したタレント、田中邦衛を初めて、海外ロケに連れ出した。田中夫妻にとっても僕にとっても、NYは初めてとなった。ジョン・レノンが撃たれることになったマンションの近く、ジュリアードにも数分の処に位置するエンパイア・ホテルに泊まった。この時は、自分の足でかなり歩いた。コロンバス・サークルから、ワシントン広場まで歩いた。ウオール・ストリートもロケハンした。ディラーのたまり場、ハーリーズ・バーもその時、知った。WTCの最上階に近いフロアにある大規模なフィットネスジムもロケハンした。

 

三回目は、證券と銀行の業務が両立できるマネー・ウオーの時代到来に、日興證券の企業広告を担当することになった時だった。ウオール・ストリートもハーリーズ・バーもロケハン済みだったが、数度の競合プレゼンの結果は、サン・フランシスコ郊外になってしまった。

 

四回目の機会が来た。3年目のスーパー・ドライの表現舞台に、ハーリーズ・バーを選んだ。ハーリーズ・バー店内に、落合信彦を置いて撮影した。カウンターバーの頭上に株価の数字を走らせた。撮影のため、光電管を増設した。当時、こうした株価の光電管は、日本で見ることはなかった。問い合わせが来たのは、CM放映後である。同じく、NYSEの内部の撮影に、日本スタッフへCM許可が出たのは、スーパードライが最初のようだった。

 

グラウンド・ゼロの地点も、駐車の難しい場所だから、と急かされてバスを降りた。

 

道路を渡った。金網から覗くと、工事中の深い穴がある。グラウンド・ゼロ、名前の通り、爆心地である。午前8時46分、ボストン発ロス・アンジェルス行きのアメリカン航空11便が、世界貿易センタービル(WTC)の北棟に激突して始まった。

 

WBCで働く110ヵ国以上の人が犠牲になった。消防士や警察官、2機の乗客乗員を含め、ビル倒壊による犠牲者は、2600人を超え、うち日本人は23人もいた。ここを訪れる者のために、9・11当時の出来事が、時間軸で表示してあった。金網から覗く風景は、ただの工事風景にしか過ぎない。背の低い日本人では、見下ろすことも出来ない。全体像をカメラに収めるには、どこか高いビルの窓からとなる。

 

その中に、錆びたH鋼で十字架が建っていた。工事人たちの想いがそうしたのだろう。実に印象的だった。安藤忠雄はコンペに負けたが、アメリカは意地でも、再び世界一のビルを建てるようだ。規模は10億ドル。「フリーダム・タワー」と名付けられている。既に4月から工事が始まり、2012年にその姿を空に突き出す。地下鉄駅は鉄とガラスで斬新なデザインを描いているようだ。港湾公社がそのプロジェクトの要になっている。東側に隣接する高層ビル3棟の完成予想図も公開された。尤も高いビルが78階建てだが、別の1棟は「タワー4」という288m、61階建てで、日本人が設計する。「幕張メッセ」「東京体育館」などの代表作がある、槙文彦氏。黒川紀章氏と同じ丹下健三門下生である。2012年か、僕は72歳。透析が始まっているかもしれない。

 

あの日、日本では、遅くまでCNNのTVを妻と観ていた。それは、突然、映画の予告編が流れたのかと勘違いさせた。しかし、その種のものではなかった。映像は、何度も繰り返されていたが、画面が揺れ始めたからだ。水平では無かったと思う。手持ちのカメラだった。NHKにチャンネルを変えてみた。だが、北海道へ進路を向けた台風情報を淡々と流しているに過ぎなかった。

 

9・11の前々日、我々は、青学熱海会のゴルフ旅行だった。僕がその企画、幹事役だった。JRのカシオペアで札幌入りし、ゴルフを楽しみ、帰路は、苫小牧からフェリーで帰るか、千歳から空路で戻ることにしていた。あいにく、札幌も雨模様で、このままだと、台風は関東に上陸するというニュースが流れた。大至急、千歳空港に集結してほしい、と携帯電話で自由行動組とゴルフ組に伝えた。

 

ある人は、タクシーで、リムジンバスで、また鉄路で慌てて参集してくれた。空港では、南下する飛行便の欠航が増えていった。幹事役の僕としては、我々10数名の夫婦を欠航前になんとか乗り込ませたいと思案した。

 

こんな日がいつか来るかと、ANAに勤める大学後輩K君に賭けた。札幌から、呉の空港へ、だ。かなりの無理を承知で頼み込んだ。飛行機に初めて乗るという熱海会の会長夫妻は、「選りに選って、こんな日に・・・」と、荒天候での搭乗に気の毒なほど弱り切っていた。フェリーでは、向かい風の波も荒いから欠航が当然だった。しばらくは、携帯電話のやりとりに集中した。何席確保できるか予測もつかなかった。状況次第では羽田ではなく伊丹の滑走路に下りることを了解させられた。何度かの通話で、全員が可能になった。

 

何度も機体を震わせて、成田上空が見えたときは歓声を上げた。なんとか、羽田に降り、チャーターした小型観光バスで波浪打ち寄せる熱海に帰り着くことが出来たことで安堵したその翌日の深夜が、WTCのテロ事件だった。この時期、日本の空港へのテロ警戒が密かに通達されていたとも、後日聞かされた。思い起こせば、千歳空港の手荷物検査も、かなり厳しかった。北上する台風に向かって飛んだ経験と、WTCの突入の映像が、その後の妻に、飛行機の旅を敬遠させた。羽田も成田も縁遠くなった。旅行と言えば、船旅一辺倒になったのだ。それも、横浜出港帰港である。

 

バスは、フルトンに向かった。ニューヨークから乗船することになっている亀井教授を、そのフルトンの歩行者の中で見つけた。

 

妻に昔、ここの海に突き出た2階で食事をしたものだとバスの中で話していたら、我々ツアーも、なんと同じ2階に上がって行くではないか。案内されて入ると、大勢の日本人観光客がいた。どうやら、飛鳥の船客らしい。ドルフィンマークを胸や帽子に付けている。我々が、横を通り抜けると、顔を寄せ合ってざわつきだした。

 

案内されたのは、奥の部屋だった。ここでは、クラムチャウダーのカップスープに、サーモンソテーが出された。デザートはシェリーグラスに入れただけの簡単なカットフルーツだった。こんなレベルのランチなら、話題のレストラン「カラーズ」の方が、NYに来た記念になるのにと残念に思った。

 

「カラーズ」とは、WTC北棟最上107階にあった「ウインドーズ・オン・ザ・ワールド」の元授業員たちが、非営利団体の融資などを受けて、共同出資でオープンさせたレストランである。NYのレストラン産業は、移民に支えられているという。「ウインドーズ」は50ヵ国以上の出身者が働いていたが、倒壊したことで職を失った20各国以上の従業員たちが再起した。「カラーズ」の店名もそれに因んでいる。120席のレストランである。アジアはもとより世界各国の料理をNY風にアレンジしているという。グリニッジビレッジ地区の1階にあるというが、これから行くエンパイヤ・ステイト・ビルへの通過点でもある。ランチメニューならそれほどの金額ではなかろう。

 

昼食の場所にも、他の世界一周クルーズ客を同じレストランにしない配慮が欲しいものだ。これは、現地のツアーガイドの下調べ不足といえよう。

フルトンに停車しても、雑貨屋を覗く時間もないままに、バスに急かされたのであるから。

 

バスは、エンパイヤ・ステイト・ビルに直行した。1階では、観光客が列をなしていた。以前、手にしたチケットは、国鉄切符の様な硬い茶色だったが、今回はエクスプレス・チケットである。高層80階まで、一般客を尻目に乗り込んだ。乗り換え階で降りる時、係員が、次々現れる東洋人に驚いている。

 

「貴方は、いったい何名分のエクスプレス・チケットを買ったのだい?」

「60名だよ」

「え、40ドルするチケットを60名も買ったのか!」

「彼らは、日本から来た観光客だよ。但し、船で来た。ア・ラウン・ザ・ワールドのクルーズをしてニューヨークに入ったのだよ。ヨーロッパからね」

「ええっ、…」という会話が交わされていた。引率ガイドの藤木君は、どうだと言わんばかりの顔をしていた。

 

妻は初めて訪れたマンハッタン島の全貌が見られると、屋上の四隅を駆け回っていた。ビジネスとカルチャーの起爆力を内包するバイタリティが眼下のビル群から沸き上がってくるようだ。ハドソン川にオレンジ色のファンネルが見えた。

 

ブロードウエイからバッテリーパークを眺めると、そこには、僕が買ったNY風景のペン画が重なる。ペン画は、16年も昔に、MOMAの前で画学生から買った絵だ。目の前の光景と違うのは、WTCの2棟のビルが消えていることだ。

 

イーストリバーに眼を転ずると、白い大きな半球型のテニスコートが見える。田中邦衛さんをフォーマルウエアで立たせた会員制プールがその横にあるはずだ。つい先日、事故で通勤客が宙づりになったルーズベルト島のケーブルは、この位置からでは、よく見えなかった。

 

スタッフの武田君が、最後の客を連れて降りるからというので、妻を連れて先に帰る。80階で乗り換えて、1階に降りた。出口が左右にあったが、左に出た。右に出ると、集合場所とは異なる通りに抜けてしまう。

 

「迷った場合は、交差点の角にあるスターバックスの前で待つこと」

 

スタッフの言葉通り、3号車、4号車の60名の日本人は、その交差点の角にたむろした。通行人に迷惑だなと、思いながら、皆、動かない。シニアの日本人が固まっている。異様な光景だ。

 

ツアーバスが来た。3号車、4号車共に乗り込んだ。長くは停車できない場所なので、バスは交差点を離れた。走る車内で、スタッフが人数を数え始めた。300mほど進んだだろうか、バスは何故か停車した。どうも、1名、年配の男性が乗っていなかったらしい。

 

ここからドタバタは起きた。ガイドの藤木さんとスタッフ2名、つまり3名が、バスを停車させて路上で相談しあっている。

 

僕と数人が降りた。決められた待ち合わせ場所には、にっぽん丸の関係者は誰も立っていないのだ。

 

これでは、その該当者が遅ればせながら、スターバックスを思い出してそこに現れたとしても、困惑するばかりだ。既にスタッフの姿がないということは、置き去られたのだと落胆するから、彼は次の手段を考えるだろう。つまり、自力で帰る方法をあれこれ考える。手にした地図があれば、停泊地のピア90をタクシードライバーに見せるだろう。一旦姿を消してしまうと、集合場所に戻っても、何も糸口はない。

 

「なぜ、最後のスタッフが現場から離れたのだ!」思わず叱責してしまった。

 

これまで2ヶ月間も、どの国に於いても、ツアースタッフの姿は、「赤いポロシャツ」で認識させてきた。ところが、今日のスタッフは、その上にクリーム色のフリース・ジャンパーを着込んでいるのだ。クリーム色は、群衆の中では際立たない。

 「我々の集合場所では、いつもの赤シャツになっているべきだ!」

 外気温を考えずに、きつい要求をしてしまった。

 「フリースは一旦脱いで、角の現場に赤シャツで走れ」と怒鳴ってしまった。

 

年配者の方には、白内障の方もおられるだろう。各地下船してのガイドの姿は、赤シャツで目が慣れているのだ。フリーズ・ジャンパーもシンボルの赤で統一すべきではなかったのか。ここにも、シニアへのサービス、気遣いが不足していると感じた。

 

藤木さんは、エンパイヤビルの展望台に上がって探す、と走っていた。あらためて車内の話を聴くと、該当者がエレベーターで下りたのを見届けている人が居た。つまり、展望台に上がった藤木さんの行動は無駄である。上層階に行くよりも周辺を探すことではないか。エレベーターで下りた時の左右どちらに出たかで、街の風景は変わる。そこから焦りが出る。該当者と書いているのは、その方の顔を存じ上げないからだ。訊いてみると、独りで参加していた方だった。座席は一番前だったという。このため、多くの乗客は、該当者の顔を見る位置にいないのである。悪いときには、得てしてそうした盲点が重なるものだ。下車して、ツアーガイドだけで鶴首しないで、車内の聞き込みをしていれば、藤木さんの戻り時間も有効に使えたはずである。

 

先回ニューオーリンズのどしゃぶりの雨に見舞われたとき、ツアースタッフのチカさんは、本船に連絡をしてタオルをタクシーでレストランに運ばせた。また、サンクト・ペテルブルグ宮殿での迷い人対策には、要所、要所に配置されたスタッフは、無線で互いに交信していた。今回のスタッフには、無線は与えられていなかったのだ。しかも、悪いことに、このバスには、ツアースタッフは1名も乗っていなかった。イベントスタッフ1名にツアースタッフ1名という組み合わせが出来なかった点が問われる。ツアースタッフの人数以上に、バスを出した、ということだ。

 

これで、結局、1時間ほどバスは動かなかった。待ち時間を無くすためだった40ドルのエクスプレス・チケットは、もはや無駄遣いだという声も出て来た。いやそれよりも、「充実のニューヨーク」という時間が消し飛んだ。下船時間に、行方不明時間。ダブルパンチだ。

 

行方不明者を「見切り」発車して、33ストリートから、イーストリバー沿いにある国連ビルへバスは走った。縦に伸びた39階建ての国連事務局ビルと横長の総会議場のビルが見えた。

 

到着したが、既に、16時30分を過ぎているため、各国の旗が下りてしまって、ポールだけが残っている寂しい風景になっていた。本来なら192本の各国国旗がアルファベット順に翻っているのを仰ぎ見られたのだ。

 

国際連盟は、第2次世界大戦の後に、米、英、ソ連(現在ロシア)、中華民国(現在、中国)を中心にして1945年に発足した。常任理事国入りを躍起になる日本が歓迎される器かどうか、元々は、戦勝国の組織だったということを忘れてはならない。現在の中国では、未だに「連合国」という呼称を使っているというではないか。

 

五番街に上がっていく途中のコースだから、車窓からの説明になるだろうと予想していたが、何故か、乗客を降ろした。下車コースの見学予定もない。通常ならば、サービスだと喜びたいところだが、いまは、他の場所への移動時間が切迫しているのだ。記念写真でも撮らせたら、すぐバスへ戻るだろうと、僕は降りなかった。ところが、藤木さんに先導された人たちを眺めると、歩き出している。いきなりバスが動きだした。近くの公園で駐車する、とドライバーが僕に言った。バスは、公園を左折した。

 

停まったバスの中から公園を眺めていると、10数名の在留邦人が浴衣を着て、太鼓をセッティングしている。公園の向かいのビルに「日本・・協会」という文字が見えた。なにか関係があるのだろうか。ぼんやりと、そう思っていたら、ピースボートの集会だった。現地の若者とのセッションだった。

 

もしや、この中に、反町がいやしないかと、ドライバーに頼んでドアを開けて貰った。千載一遇のチャンスと、その中に走り込む。ピースボートの幹事らしき若者に、反町君は来ていないかと訊いてみた。彼は、いま別の場に出掛けているという答だった。やはり、此処でも会えないのかと諦めた。ここは、国連への抗議集会によく使われるダグ・ハマーショルド広場だった。

 

随分経ってから、乗客が戻ってきた。バスが出発した。

 

ガイドによると、この「ジャパン・ソサエティ」は、来年創設100周年を迎える日米文化交流の中心を担っている協会で、日本文化を紹介したり、講演会やセミナーを行ったりしているようだ。

 

時間がタイトになって来た。五番街のティファニーは、指差しで説明しただけで、抜けたが、セントラルパークへ上がる時間はなく、バスは、ピア90に戻った。

 

夕食の約束があるのに、帰着時間は大幅に遅れてしまった。朝のスタートが遅れた時点で、帰着時間をガイドに念押ししたのだが、結局、反古になった。焦った。

 

部屋で着替えてから、タクシーを捕まえていたら、レキシントン街のレストランで会食する人物を1時間も待たせることになる。急いでいるので、タクシーを呼んで貰えないかと、近くにいた三木エージェンシーの男性に頼んだが、通りの向こうにタクシー乗り場があるからと、取り合ってはくれなかった。税関は、例によってX線と金属探知機を使うため、ツアー客が並んで、時間を要した。

 

船室に戻る。焦る。急いで着替える。土産物を持つ。遅れていることを携帯で詫びようとする。が相手に繋がらない。通りを渡ってTAXIと書かれた屋根の下に立つが、タクシーは来てくれない。

以前この辺りは危険な地域だった。夕方に足を踏み入れもしなかったし、ましてや、妻を連れて立ってる場所でもなかった。あの「ウエストサイド・ストーリー」、ジェット団とシャーク団の喧嘩する舞台となったエリアである。そのモデルとなった学校やバスケットコートは、現存する。いま通りは、幾分きれいになっているものの、無防備に出歩くところではない。そんな所にジャケット姿の自分たちが立っている。妻も客に会う姿でいる。場違いな気分だ。空のタクシーは通らない。時間はどんどん費やされる。やはり、タクシーを呼んで欲しかった。悔やんでも後の祭りだ。

ここで15分も費やした。やっと、空車を停めることができた。

レキシントンと52stの角だと告げた。一方通行が多いとはいえ、なぜか54stで降ろされた。ドライバーは、俺にはあんたの声は、54stと聞こえたと言い切る。ここでクレームを付けるよりは、急いで歩いた方がいいと降りる。携帯を鳴らしてみるが、やはり、通じない。

かなりの早足に妻は懸命に付いてきてくれた。店に着くと、木下マネージャーが待ちかねていたようで、すぐ部屋に通された。遅れた理由は様々のことが重なったが、まずは詫びる他なかった。ひさしぶりに会うのに、申し訳ないスタートとなった。

 

今晩の会食相手は、慶應義塾ニューヨーク学院院長である。万延元年(1860年)、咸臨丸に乗ってアメリカへ渡った福澤諭吉が慶應義塾の創立者なら、慶應義塾ニューヨーク学院(高等部)は1990年に創立されたニューヨーク州の私立学校連盟(NYSAIS)にも加盟しているアメリカの高等学校であり、日本国文部科学省からも指定を得ている「高等学校の課程を有する在外教育施設」である。全寮制で、授業の約7割は、英語である。

その学院長が、迫村純男、サムである。我々の仲間「マバラ組」については、出版した03年の航海日誌の中に書いた。メールという有り難い通信手段で交信できていた。7年ぶりで会うのが、ニューヨークになった。

単身赴任の身だから、時間が自由になるかと甘いことを考えてメールしたのだが、寄港時期が悪かった。こちらでは、6月は卒業式という重要なセレモニーがあり、院長にとっては、なにかと多用な最中であった。恐縮するのは、サムの住んでいるところも学校も、このマンハッタンの中心からは北へ遠く離れている。

聞くと、昨日一日を除き、ここ1週間ほどは、雨が降り続いていたという。入港時に、自由の女神が見られただけでもラッキーだったと、言われた。

 

まずは、最初にひとくちスーパードライをと、勧められた。155East 52Streetのレストラン「ニッポン」。ここは日本料理店である。

世界一周クルーズでは、さぞ洋食一辺倒で、和食の味から遠ざかっているという心遣いだったのだろうか。次々に料理が出された。刺身もお椀も天ぷらも肉も、そのどれもがすべて美味しかった。にっぽん丸の和食もなかなかだが、ここの味は更に格別。

 

仕事着を着た店主がふすまを開けて、挨拶に来てくれた。ニューヨークに日本食を広めた功績で、過日、市長から表彰をされたと、サムから先ほど聞かされていた。店主が、スーパードライを好むお客さんが多いですよと言ってくれる。サムから、僕がスーパードライに関係していることを聞かされているからだろう。ゼネラルマネージャーの木下直樹さんが、丁寧に応対して下さる。

焼酎は何がありますかと尋ねると、「神の河」があると。そこで、「神の河」誕生秘話をひとくさり。「神の河」の後に、スーパードライを担当したこと。スーパードライの新発売3年目のキャンペーンを展開するために、ニューヨークへ撮影に来たこと。タイミング良く、ニューヨークでスーパードライが販売されたこと。タイムズ・スクエアのスクリーンボードに、広告費を払って「スーパードライ」の文字を写しだしたこと。それを撮って、翌年、日本の正月新聞広告にしたことで、3年目がスタートしたことなどを話した。

田中邦衛とフォーマルウエアのCM撮影で投宿したジュリアード音楽院に近いエンパイア・ホテルが、今は閉じられたこと、ロケハンしたフィットネスジムのあったTWCが倒壊したこと、そして、落合信彦と撮影したプラザホテルが売却され、レジデンスになること、など、年月は想い出の場所を消していきますよ、と話すと、新しく再開発されたタイムズ・スクエアを見られたでしょ、と返された。未だ観ていないので、明日、妻と歩きます。地下鉄でソーホーまで行くと言うと、地下鉄も随分安全できれいになりましたよ、と安心させてくれた。

グランド・セントラルのオイスター・バーや、チェルシーマーケットなどに行く時間はなさそうだと言うと、サムは、滅多にマンハッタンには来ないのだという。出て来るときは、この店が目的なのだそうだ。

美味い蕎麦を食べようと、サムが店主に目配せした。用意されてあったようで、すぐに蕎麦が出てきた。確かに、蕎麦も、腰があって美味い。カナダで自分の蕎麦を作り、ニューヨークのこの店で粉をひく。素材には、徹底したこだわりを持っているからだという。

ここでは、三田会も開かれるのだそうだ。

米国三田会の情報でお世話になったといえば、カーネギーメロン大学の准教授だった冨田 勝さん(スーパードライの落合信彦に代わるタレントとして、大学教授シリーズの一人)は帰国して、いま、SFC(慶応湘南キャンパス)の学部長である。 ニューヨーク学院の話、日本への大学受験の話、ここには書けない生徒の話も出た。

約束だった「思い切って世界一周」の本をサムに手渡して、食事を終えた。

 

帰りは、リムジンでピア90まで送ってもらった。1時間も待ってくれていたサムには大変申し訳ないことをしたが、想い出深いニューヨークの夜を創って貰えたことに心から感謝したい。ゴルフにハマッテいるというサムを今度は、大熱海国際に招待しようと約束した。

 

横に成りながら、今日を振り返った。今日のツアースタッフは、初動捜査を誤ったのだと言える。1,全員を確認しないままに発車した。2,田実君は赤いシャツのまま、現場に残るべきだった。3,永井君は、車内の乗客から情報を得るべきだった。4,藤木さんは、内部見学しない国連ビルでの下車時間を短縮すべきだった。5,内山ツアーディレクターは、ツアースタッフの人員配置と職務義務を再認識させることだ。ニューヨークは何が起きても不思議ではない都会だからだ。

明日は自由行動で、妻と美子さんを案内する。雨よ、降らないでくれ。

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投稿日: 2011年11月14日

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萩原高 二度目の世界一周クルーズ日誌

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南洋の楽園クルーズ

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萩原高、洋上より。

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