下谷笑鬼の片眼

48年目の同窓会2

投稿日: 2011年11月15日

 翌朝、伊良湖(いらご)港で乗り継いで、伊勢湾を横切って鳥羽に向かう。 

 

 この伊勢湾フェリーは、赤字航路とかでまもなく終航になるらしい。存続署名が続けられている。滅多にここまでこないことを考えると、乗り納めになるようだ。申し訳ないが、我々の関心は別の所にあった。民主党の代表選挙の結果である。最上階の特等室に座り、テレビ画面を注目した。菅代表のニュースは、船上で知ることになった。

 志摩半島といえば、後輩の岩城明夫の実家があるところだ。食道癌を全摘したので、戻って、そろそろ母親と一緒に住もうかと言っていたことを思い出した。

 

 鳥羽のエクシブ・アネックスは13階が我々の部屋になった。フロントのカウンターにあった何本ものパターが気になった。ポスターには、かなり広い「パターゴルフ」場の写真があった。

 夕食までの自由時間をパターで遊ぼうと、大泉正昭と足立敏に誘いをかけた。勇んで出掛けた際に、鉄骨の梁にしたたか頭部をぶつけた。目から火花を実感した。くらっと来た。しばらく、視野が霞んだ。指をやると、血がベッタリ。ただでさえ、薄くなっているので、無防備な箇所だ。緩急のスロープに左右のドッグレッグ、そして浅いバンカーもレイアウトされていて、18ホールは予想外に楽しめた。更にハーフを回った。パターだけのフォームだから、頭を下げるのだが、弾の転がりを追いかけることに注視していて、二人とも頭のてっぺんに異常には気付いていなかった。汗を流そうかと、そのまま大浴場に直行した。かけ湯を頭に落として、痛みは走った。やはり、傷口は痛んだ。クロマイ軟膏を塗っておくしかなかった。

 鳥羽での夕食も、別メニューにしてくれていた。

 

 

 最後の夜だからと全員がひと部屋に集まった。来年の幹事役を互選しようというのだ。久しぶりに出席したことと、食事に関して幹事に気遣ってもらった礼を述べた。

 ところが、酔いも加わって、来年の幹事役をさせられる羽目になってしまった。果たして、来年、役が果たせるだろうか、返事に窮した。やはり、この人たちは、腎不全の進行状態を知らないままに、幹事役をさせようとしているのだった。同期の中で今年不参加になったのは、榛葉だった。週3回の透析通院をしているのだ。宇野彦也、望月裕、そして戸田臣雄は、既に癌で逝ってしまった。

 なんとか頼んで、副幹事役を指名させて貰って、今年が終わった。

 帰京して再び、2ヶ月定期検診になった。安藤医師が言った。

 「次回からは、血液を採取するのは、右腕にしてくださいよ。

 左腕は、いまから、大事にしないと。シャントを作る腕ですからね」

 「・・・・・・・・・」

カテゴリ:あの時の、あのこと

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