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アジアクルーズ日誌

15日目 バンコック2

投稿日: 2014年8月8日

 20110207 バンコック2

 

朝、緊張した面持ちで起きた。7時までに2㎞先のゲートへ歩く。

イミグレ代行のビルからゲートまで倉庫が建ち並ぶ道を歩くのだ。

菅井夫妻と妻を伴って歩くのだ。気が抜けない。

石沢君は、レンタカーで7時には到着するからだ。

朝早く起きてくれた彼のためにも遅刻は出来ない。

船内のレストランがオープンする6時には、我々は朝食のテーブルに座っていた。

昨晩ベッドに入ったのは午前2時である。睡眠時間は、僅かに3時間だった。

2kmの道を歩かないでも良い方法を考えていた。

元々、水上マーケット行のツアーバスも此処から出発するのだ。

だから、美子さんのあの交渉力で、「ゲートまで、ちょっと便乗させてくれない?」

と頼むつもりでいた。

しかし、ツアーバスに空きの座席がない時は、断られるだろう。

そうなってからでは、待ち合わせ時刻には間に合わない。

かなりの時間を遅刻する。

先に船から下りて三人を待っている時、誰かに声をかけられた。

「お早う御座います」。日本人だ。

現地代理店の方だと直感した。

念のため、前日にダメ元で頼んでおいたのだが、確信がない。

「伝わっているかどうか、判りませんが、車が空いていましたら、

ゲートまで送っていただけないかと頼んでおいたのですが・・・

我々4人を送って下さいませんでしょうか」

ちょっと待って下さいと言って、車まで走って行ってくれた。 両手でOKサインを出してくれた。

急いで、4人が車に乗り込む。倉庫街が続く2キロは、無機質で不気味ささえ与える。

車で走れば、ものの2分だった。 守衛門の外に出て石沢君のハイエースを待つことにした。

 

「早いじゃあないですか、お早う御座います、石沢です」

グレーのハイエースから降りてきて、菅井夫妻に挨拶した。

本日のドライバー、ガオさん、愛称は9(キュ-)さんだと紹介を受ける。

車はバンコック郊外の西南、一路、水上マーケットへ向けて走り出した。

水上マーケットへ出かけるチャンスを2回逃してきた。

1度目は、リンタス・ワールド・コンファレンスで出席したとき、

2度目は、妻とホアヒン移住の下見に来たときである。

3度目の正直、早起きしないと市場が終わってしまうと言うので、

わくわくして乗った。

 

 

トンブリ地区を抜ける頃、田園風景に白いものがちらついた。

よく見ると、塩田だった。かつて、昔、ホアヒンで観た光景と同じだったが、

人がいるので、降りてみた。

道路を走る車に塩を売っているのだ。

珍しい土産にと、菅井さん共々、買い求めた。

 

 

市内から約80km走って、水上マーケットを示す看板が見えた。

「ダムヌン・サドアック水上マーケット」。

http://www.thailandtravel.or.jp/detail/sightseeing/?no=124

しかし、周りを見渡しても、水路が見えない。

車は、左折した。広い駐車場の先に、チケット売り場らしい椅子がある。

 

 

実に、質素な造りの小屋に、選択するコースが図解されてある。

キューさんは車で、終点に向けて車を回すという。

我々は、船着き場から乗り込む。喫水線が浅いというか、

波を受けたらすぐに流れ込むのでは無いかと思える程だ。

ベトコンの水路と同じで、狭い水路が入り組んでいて、

あちこちに住む生活が垣間見られる。

 

 

狭い水路から広い水路へ船は縦横無尽に走る。

あたかも洪水に見舞われたかと思わせる風景が現れるが、よく考えて観れば、

道路は河であり、家々は、高床式である。目に錯覚。

 

 

途中、

名前も知らない、寺院に停まった。

お参りしてしてから、マーケットに入ろうというわけだ。

互いに、仏様に身体に、買った金箔を貼り付けて、神妙にお参りをした。

 

 

水路を曲がったら、いきなり別の世界が現れた。

わっと、色が飛び込んで来た。

実にカラフルな世界が広がっていた。

姦しい。船に積んだ果実や食料を大声で売り込んでいる。

それが、船から船へ、手渡しで売買されていく。

 

 

 

ああ、この華やいだバイタリティーあふれた光景は、映画でお馴染みだ。

東洋のベニスと呼ばれた光景が目の前に広がっている。

近代化が進んで陸上交通が発達して水路が減少していくのを苦慮した政府が、

水路保護と観光客誘致のために、このダムヌン・サドアク運河も再開発したのだそうだ。

 

 

意外だったのは、曲がりくねった水路の脇に、水際すれすれまで、

土産物や彫刻、衣類などが飾られていて、客はそれを直に手にとって値段交渉となる。

買いたいなと思いながら観ていると、船は進んでしまい、買いそびれる。

 

 

船同士の渋滞が半端ではない。進むもの退くもの、少しの間が空けば、

船の切っ先を差し込む。

小刻みに噴かすモータースクリューの巧みな扱いで船を進める。

プロパンガスのボンベを載せた船は、揺れる中で器用に包丁を使って、

料理している。朝食を食べる人がいるのだ。

僕は、この手の料理は美味いと言われても、絶対に食べられない。

台湾ロケをして以来、屋台の料理が食べられなくなったからだ。

いかにもイタリア人と思える男性が、立ち上がって、歌を歌う。

ここは、イタリアのゴンドラより、面白いのだろう。 衣服も手工芸品も、欧米人が気前よく買う。

土産にだろうが、数が半端じゃない。日本人よりも、

彼らの方が金離れがいいから、優遇される。

 

一過性の水路に並ぶ、数々の土産品、何が出て来るか判らない楽しさ、

比較できないことの買い急ぎの失敗。

 

 

なるほど、2回目も訪れたくなる訳はここに仕掛けがあるのだ。

妻は、なにやらいろいろと船から手を伸ばして、買い足していた。

手芸品では、窓飾りの鳥を買ったようだ。

過日のメコン川遊覧ツアーに参加しなくても良かったくらいだ。

 

帰路に寄ったのは、

木工クラフトマンショップの「ロイヤル・タイ・ハンドクラフトセンター」。

 

 

 

 

デモンストレーションのように、

 

 

一本の幹の中に、何体もの仏像を掘り抜いている匠もいれば、

一枚の厚いチーク板で、4層もの奥行きに僧侶から象、猿、蛇など重層に、

歴史らしきものが彫り込まれた絵巻を丹念に、もう4年も彫り込んでいる匠もいた。

奥の庭には、見上げるばかりの大きさで、木彫りの象が何体も並んでいた。

実物大に近い象だから、この前で、記念写真を撮った。

 

 

 

どの木彫りを見ても、アーキテクトクラフトマンの繊細さと耐久力には、驚かされる。

取りかかったら、2年、3年というものが少なくない。

ここで掘られているのは、既に、オーダーを貰ったものだとか。

気に入った家具もディスプレイされていたが、

案外、日本の間取りでは、部屋が家具に占められかねないなと笑って流した。

 

 

石沢君は、さらに、大きな寺院を観て帰りましょうと、

釣り鐘状の寺院に寄ってくれた。

ナコンパトムの「ワット・プラパトムチェディ」である。

http://www.thailandtravel.or.jp/detail/sightseeing/?no=115

 

 

 

確かに小山の上に聳え立つ鐘の形をしたお堂は、大きい。

世界一の大きさだという。世界遺産に申請中だとも。

タイの人たちにとっては、王室に繋がる重要な仏教寺院なのだと知る。

チャオプラヤの寺院を観たら、此処まで来て、世界一の寺院を観て貰いたいと、

バンコックの人たちは勧めるのだ。

毎年、11月の満月の日はタイ全土から巡礼者が集まるという。

 

 

足下は、テントを張り巡らせたショッピングモールができあがっていた。

駐車場が見つからないと、キューさんが車を転がしながら探すという。

しかし、何処を歩いても、こうした寺院は僕には、

霊験あらたかになることはなかった。

京都の寺院を歩いても、抹香臭いと言ってしまうので、妻が顔しかめる。

バンコックまで残すところ、60km。これで、一路、バンコク市内へ。

我々のリクエストで、中華街でのフカヒレスープを菅井夫妻に食べさせたいと、

ヤララジ通りを目指して欲しいと頼んだ。

食べる店は、石沢君とキューさんに任せた。

市内に近づくに連れて、夕暮れの渋滞に填まった。

運転するキューさんが気の毒になった。

抜け道をあれこれ走って、とある駐車場に着いた。

降りたその場所から、店に入るではないか。

つまり、裏口から入ったのだ。

ここで、待望のフカヒレスープを口にするのだ。

流行る気持ちでメニューを覗くと、

形の崩れていないヒレで、しかもサイズの違いで、

オーダーするか、形は崩れていても量で味わうか決める。

当然とは言え、後者になった。

 

かつて、藤井さんとこの町に夜訪れた。

道路に横付けされた真っ白い車から、時折、白い湯気が上がる。

道路脇の丸椅子には、10人くらいの客が大きな丼からスープを飲んでいる。

素手で掴んではいけない素焼きナベの中にたっぷりの熱々スープが、

自分に来るまでのもどかしさ。料金は、2000円だった。

この店でも、店先で素焼きナベを火に掛けている様をデモンストレーションしている。

手つきをみると、我々のヒレは、袋から鷲掴みしたそれを一、二度投げ込んでいる。

この辺が、おおざっぱでいい。

ここの6人分の支払いには、事前に渡しておいた軍資金だけでは不足するだろうと、石沢君に訊ねる。

とりあえず、200バーツを渡しておく。

遅い軽い昼食を終えた。

少し歩こうと街へ繰り出した。

 

 

 

 

旧正月の飾り付けが華々しい。

ここは、新春を迎える国である。

なんとか、また正月を迎え手得した気分になった。

しばらく、晴れがましい街を歩き、横丁に入った。

食材なら生きたまま何でもあるというほどの、

”狭い京都錦市場”を見学した。

 

 

 

菅井さんからのリクエストは、

バンコックの1番人気のショッピングビルに連れていって貰いたいということだった。

買い物をしていないからだ。

ショッピングビルでは、駐車場の苦労は無いとキューさんは即座に了解した。

エスカレーターで何階ものフロアーを歩いたが、

結局、足が止まったのは、シルクの売り場だった。

確かにこの色彩は、何度みても、目移りがする。

微妙な色が品を訴えてくれる。

 

 

 

立ち襟の白黒ストライプのシャツが気に入ったので、妻にどうかといったら、

私には似合わないわよと、遠慮された。

また無駄遣いをという顔だった。

菅井夫妻もウチも、シルクのスカーフを何枚か買った。

夕食はトンローの通りで、初めての店に入ろうとしたが、

結局は、初めてバンコックに来た夜に藤井さんに連れて行かれたレストラン。

半野外の広いレストラン、「トン・クルアン」になった。

http://www.jiyuland.com/map.html

 

 

 

荘輔さんの大好物、蟹を中心にした料理を頼んでもらった。

スーパードライのプロモーションガール が盛んに媚びをふり、

ビールのオーダーを勧める。勿論、頼んだが、荘輔さんは

意外にも、「メコン」タイの米焼酎を喜んでくれた。

 

 

 

 

僅か2日間の滞在であったが、我々夫婦達にとっては、一週間にも等しい充実感を得た。

石澤君のアテンドに感謝しすぎることはなかった。

運転手のキューさんとレンタカーを返して家路に向かうのだから、まだまだ時間が掛かる。

我々だけが、船室に入ってしまうのが申し訳ない思いだった。

 

 

 「大風呂に行くだろ?帰って来て、気力に余裕があったら、部屋で一杯やろうよ」

 「はい、そうします」 

「先に行ってるよ」 

 荘輔さんにそう言われて、自室に戻った。

今日の写真をパソコンへ取り込む作業の途中だった。風呂へ行く前に、済ませてしまおうと、通常なら、ソフト任せにするところを、手動でペーストした。

 今日撮影のメディアが二枚に別れていた。最初の一枚分は、昨夜の「バニヤンツリー・ホテル」の屋上バーでのスナップだ。 パソコンへの移し替えが終わったものとして、その屋上バーのスナップを消去して明日に備えた。

 

 さて、風呂へ、と立ち上がりながら、パソコン側へ移したフォルダーのタイトルを書き換えた。

念のために、中を開けて見ると、写真の枚数が少ない。

290枚は撮ったのに、である。 妙だ?!と、カメラ側の、もう一枚のフォルダーを開けて見た。 

あっ!・・・・・・キエ、テ、イタ!!のだ。何を勘違いしたものか????・???? 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どうしようとすることもできない。既に、跡形もないのだ。

パソコン側に1度取り込んでいれば、 こんなミスを犯さなかったのに、だ。

 

やってしまった。念願の水上マーケットだっただけに、悔やまれる。

しょげた顔して、大風呂に出掛けることとなった。そんなこととは、知らない、荘輔さんは、おお、と手を挙げて合図して、サウナ室に消えた。

 

実に中身の濃いバンコックを石沢君のアテンドで愉しく終えたはずが、大きな落とし穴があったのだ。ショックなの夜になった。

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14日目 バンコック1

投稿日: 2014年7月29日

20110206 バンコック1

6時には、パイロットを乗せてバンコックに入国し、8時40分に接岸すると聞いている。

7時に起きて窓外を見る。チャオプラヤに入って来たことは解ったが、ガスっていて岸辺の風景が良く見えない。これでは、プロムナードデッキに出たとしても写真は、撮りにくい時間かと、朝食に出る。

既に菅井夫妻の姿はあった。彼らは、アユタヤへのツアーバス乗車組だ。我々は、シャトルバスまで、時間的には余裕がある。

 

 

レストランの左右に、時折、金色の寺院が見え隠れし始めた。バンコックらしい風景になってきた。 バンコックの意味は、天使の街、クレンテープなのだそうだ。

 

食事を終えて、プロムナードデッキに出る。河畔の変化する風景を撮っている内に、岸壁が近づいてきた。船はスクリューを逆回転させ、後退して車の並列駐車のように岸壁に接岸した。2キロ先のゲートがどの方向か、見当もつかない。

 

 

5階のフロント、岩田さんに現地代理店からの情報で、伊勢丹から埠頭ゲートまでの車での経路を教えて貰うことになっている。彼の数年前の体験では、曲がりくねった倉庫街の道を夜に帰って来たのだというから、シャトルバスで出るときに、よく道筋を覚えて置いてくださいとアドバイスされた。こうなると、緊張せざるを得ない。その道が2キロの及ぶと言うことなら、さしずめ、上野駅から田原町駅くらいか。まあ、夜の散歩をしている距離だから長いとは思えないが、朝ゲートまでの歩きは問題ないとしても、夕食後の帰路、ゲートから車が入れないとなると、厄介なことだ。倉庫会社の夜勤従業員がちょっかいを出さなければいいのだが・・。念のため、携帯電話にぱしびの衛星電話番号を打ち込む。万が一、深夜になって、ゲート付近で何かあったら、電話しますからと、ボタンプッシュしてみる。1階のフロントの電話が鳴った。フロントの竹内さんにOKサインを出した。

 

着岸停船して時間は随分経ったが、未だ代理店の担当者は乗船して来ていない。気が急く。

フロントで両替をする。1口3000円で1000BTS。7口、7000BTS分を21000円で両替しておく。2夫妻で4万円分を石沢に渡しておきたいからだ。

 

ようやく岩田さんの手元にゲートの位置を記した地図が届いた。3枚の地図を貼り合わせたコピーを出された。1枚60円で180円也を支払う。ゲートとイミグレとはほぼ一直線であることが判った。

 

9時発のシャトルバスに乗る。一応、目を凝らして、ゲートまでの風景を頭に焼き付ける。港湾労働者にいるこうした倉庫街の建ち並ぶ埠頭の風景は、大学2年生の頃を思い出す。

 

我が家が伊勢湾台風で被災を受けたため、帰郷してバイトに励んだのが、名古屋港での全検(全日本検数員)の仕事だった。荷受け側と船主側(日検)に別れて、輸出入品の数をチェックする。時には、ワッチマンという仕事で広い埠頭にただ独り徹夜することもあった。船積み前日、500台以上のトヨタの乗用車が埠頭に駐車している。その中央に一台だけ、キーを預かった車があり、そこで明け方まで監視するという役割だ。ルームライトを点けたり、カーラジオを鳴らしたりすれば、ワッチマンが何処にいるか、明白になってしまうので、ただただ黙して座っているという仕事なのだ。翌日に、傷物の車が発見されれば、全検の責任となる。極めて、高額商品の責任重大な仕事である。その分、時間給も高かった。月に何度もある仕事ではなかった。ゲートに向かうシャトルバスの窓から、そうした夜を思い出していた。

 

帰路の目印にとデジカメの連写で街の標識やビルを撮ったのだが、悲しいかな、読めるわけがない。自分で思わず苦笑した。

やがて、見慣れた町並みが現れた。デモが繰り広げられたサイアムの高架歩道と交差点だ。

伊勢丹の文字も見えた。渋滞もなくスムースに着いた。

 

角にエラワンプーム(精霊)を祀るほこらが見えた。多くの人がお参りをしている。

聞くところによると、「プラ・ピッカネート(ガネーシャ神)」といい、商業の願掛けになっているとか。なるほど、伊勢丹角に建つのも頷けた。 

 

1階のジムトンプソンの店に入って、石沢君を待つ。妻は、久しぶりのこの店に懐かしいを連発。そうなのだ。2002年、ホアヒンのリタイア・ビレッジを下見しようと藤井さん(BKKの「スマイルフィルム」社長)の誘いで、バンコックを訪れた。ホアヒンのホテル、「ソフィテル」でゆったりとしたリゾート気分を味わった。「ソフィテル・センタラ・グランド・リゾート&ピラズ」は、かつて、「レイル・ウエイ・ホテル」の名前で、上流階級の人たちが長逗留していた、タイ最初のリゾートといわれている。

しかし、移住しても遠からず通うことになる透析病院は、40km先だったことから、移住を断念し、2003年、世界一周クルーズに出掛けたのだ。それ以降旅重ねた船旅は、夫婦で訪れたタイ旅行がきっかけになったのだ。

 

ストローハットを頭に、ホワイトのコットンパンツでアロハシャツを着込んだ洒落た男が入口に近づいてきた。斜め掛けのバックも、なかなかの出で立ちだった。この街の中でも大柄で、洒落者で通じるファッションだった。さすが、元アドマン。石澤君のお出ましだ。

 

昼食には間があるので、しばらくジムトンプソンの店で、土産用の品物を探す。熱海の友人夫人方、そして妹尾と長男、次男の嫁、計7軒への土産だ。気に入った小物入れを数点買ってから、外に出た。2002年以来だから、街は変貌していた。

 

妻の最大のショッピング目的は、「ドクターショール」のシューズ。かつてスクンヴィットの「エンポリュウム」で買い求めたシューズが、彼女はお気に入りだったが、今クルーズ中に、靴底が割れてしまった。9年も履き続けたのだから、買い換え時だと言える。石澤君には、メールで、「ドクターショール」の店に入りたいと前以て頼んでおいた。彼は、「エンポリュウム」の同系列であって、更にスケールの大きな「サイアム・パラゴン」の店を勧めてくれた。歩いて5分ほどのビルだった。

確かに靴メーカーは多く、その中に「ドクターショール」のコーナーを見つけた。「ドクターショール」をこんなに大きく扱っている店を、日本では知らないのだ。

 

妻は、随分時間が掛かっていた。気に入った3足を迷っていたのだ。自分のサイズの合う気に入ったデザインは、日本でも少ないので、この際だから、3足共買うことを勧めた。まあ、靴は、医療健康器具と思えばいいのだ。日本で探すには、時間がかかりすぎるからだ。このバンコックでは、妻の足のサイズが結構揃っているからだ。

バンコック、いや、今クルーズ、最大の買い物はこうして、いとも簡単に終えることが出来た。

 

在留邦人が5万人もいるタイ。単一の日本人校は3000人と世界最大である。かつて、日本人会の会長は、石平支社長が永らく務めておられた。

 

彼女曰く、飛行機は嫌いだが、こんなに自分のサイズが多く、デザインが選べる国は此処しかない。5時間の空路は死んだ気で買い物に来たいと言い出すほど、はしゃいでいる。

 

よく考えてみれば、待ち合わせして、石澤君をいきなり、買い物に付き合わせてしまったのだ。

 

オチャして、今日の時間割を打ち合わせをしようと僕が言い出した。目移りする品は、まだ他にも多いが、1階のフードコートに降りた。しばらく、石澤君のバンコックライフを聞かせてもらった。

 

今日の予定は、「JJ」。チャトゥチャック・ウイークエンド・マーケットだ。妻にあの猛烈なエネルギーを感じさせたいのだ。後楽園ドーム6杯分はあるかと思える程の、何でも有りの最大マーケット。

ただ、あのエリアでの食事は、誇りっぽくていけない。

 

出掛ける前に、昼食をしよう。「MK」がいい。BTSのホームから看板が見えたことを思い出した。

 「コカ」は、知られたタイスキの店だが、どうも、観光客相手になっているせいか、味がまずい。有楽町にも、上野にも進出しているが、「MK」には負ける。

石澤君が店の住所を調べてくれた。どうやら、あの店は移転したらしい。

彼も、最近はタイ飯は口にしていないと言っていた。

何処かに訊きに行った。そして、タクシーに乗ることになった。

 

或るビルの1階に総ガラス張りの大きな店構えで「MK」はあった。Mというローマ字もそうだが、「金」を丸で囲った、マルキンも、もうひとつの印だ。相変わらずの人気の店で、15分は待つことになった。

 

テーブルに御案内されてまずは、ドリンク。キウイジュースを頼んだ。

妻の頼んだ飲み物はマンゴジュース。ひとくち飲んで驚いた顔をした。

「あなた、これ、飲んでみて、美味いわよ!」

味が実に濃いのだ、いわゆるネクター状態なのだ。糖度も高い。70バーツ。210円で、こんな美味い果物が飲めるなんて、実にフルーツ天国だ、贅沢だ、と互いに驚き合う。

何度もバンコックに来ていて、キウイジュースは初めて口にした。

 

サイドオーダーの豚肉と北京ダックは、既にそれだけで充分な味が付いていた。

適当に頼んでくれたタイスキの具は、小皿を段違いに載せた器で運ばれてきた。

これも、コカチェーンにはない小道具だ。丁度、ハイティーの時のケーキを載せてくる金具に似せている。MKのスープは、コカとは違う美味さだ。

日本軍が教えたというタイに根付いたすき焼き。恐らく、戦時中は、肉よりも、他の具材を多く鍋に入れたのだろう。久しぶりのタイスキに胃袋も満足した。

 

食後は、BTSのホームに立った。今は台北も同じ風景だ。スカイトレインをBTS,地下鉄はMRT,スクンヴィットは、SUKである。3文字省略が多い。BKKは、バンコック。

交通渋滞を緩和させるために生まれた新しい交通手段である。この開通には、日本の国際協力銀行が主体の円借款が大きく寄与していて、日本の企業も多くの工事を受け持った。しかし、車両は、ドイツのシーメンス社を採用することになったため、ホームと車両の間に危険な隙間が生じている。

バンコックを訪れる観光客でも、平日では観られない、土日限定のマーケット。我々は、運が良いのだ。洋品洋服雑貨はもちろんのこと、レコードから食器、美術品からカーテン地、植木から熱帯魚、犬猫のペット類と、殆どの物が手に入る。コピー商品から、オリジナルまで新品から中古まで、その商品の目利きが出来る者には、堪えられない魅力の宝庫だ。

心配は、果たして、歩き回る2時間、自分の足が持つかどうか。あの迷路の中を汗かきながら歩き回るのだ。

 

チャトゥチャック駅は、はき出された人でホームが埋まった。駅から、マーケットの入口までは、人の波。逆らえず、しばらくは、身を任せる。

 

なにも観光客が押し寄せているばかりではない、地元の人々にしても楽しみに待ったウイークエンド・マーケットなのだ。三人がバラバラにならないことだった。

 

アメ横以上に幾筋もある商店に溢れんばかりに飾られた品々。目が疲れてしまう。

掛け声は、時折、カタカナの日本語が降ってくる。何処かでどっと笑いが爆発する。

 

 

歩いているウチに方向と距離感を失う。ひっくり返された、大人のおもちゃ箱だ。

 

妻は、網代の盆を数枚買っただけに終わった。

かなり疲れた。足の上がっていないことが自分で解るほどだった。すり足で歩いている。

気を散り直した。我々の目当ては、家具売り場だった。

左側を回った奥のエリアにそれはあった。

ラタンと硬質硝子の組み合わせで、なかなか洒落たデザインの食卓があった。

 

船便でいくらになるかを訊ねた。案外、安い値段だったので、買う気になってしまった。

買いたい気分が高まった。ところが、船便が到着した日を想像してみた。

マンションのドアから入れられるか。キッチン横の入口から果たして入れられるか?

95X95X75だ。

鉄枠でデザインされたそれは、斜めにしてもマンションの玄関にさえ入らないことが判明した。

巻き尺で何度計り直しても、それは無理だった。

 

我々の家には運び入れられない事を知れば知るほどに、残念になった。

後ろ髪を引かれる気持ちで、妻を駅に向かわせた。、

 

 

地下鉄はスクンヴィット駅で降りた。

 

喉が渇いていた。暑さも堪えた。「ウエスティン・ホテル」のカフェに歩を進めた。

ゆったりとした、大きな椅子に身体を預けて、エアコンの効いた空気を吸い込んだ。

 

テンモー・パン(西瓜のシェーク)を頼んで飲んでみた。これがまた美味い。

 

昔なら、充分腎臓病患者には、贅沢な薬になった。

いまでは、カリウムが高いからと敬遠されている。

 

 

ジュースは、ナーン。ナーンとは水。メナームのナームは水の意味だと判る。

こうして、石澤君が、話のネタを渡してくれる。

このゆったりさは何だろう。音楽が聞こえてくるのでもない。

外の走行音も聞こえない。奥のパントリーの方で、かすかに聞こえる水道の音。

天井の高さも影響しているのだろうか、だらしない身体が、浮いているような錯覚を覚える。

 

動きたくない。それほどに、歩き回ったということだ。二人はどうだろう。

 

夕食を何処にするか、これまた、考えなければならない。石澤君も考える。

結局、スクンビットの方角に向かう。閉店だったり満員だったりして二軒、三軒周った。

 

食事でのアルコールは、抑えた。この後、彼が、これぞバンコックの隠れ家といえる、

観光客の知らないバーに連れて行ってくれるという。それを楽しみに食事だけにした。

 

少し、風が吹いてきた。頬に心地よい。湿気を感じない。なんだか、LAXにいる気分になってきた。

 

タクシーで繁華街を離れ、ビジネス街に入る。辺りのビルを抜きん出て、ペンシルビルが見えてきた。サートーン通りだそうだ。ホテルの玄関に乗り入れる。イギリス風のコスチュウムを着たドアマンが、恭しくドアーを開けた。ハイソなホテルだと感じた。

 

バニヤンツリーホテル( Banyan Tree Bangkok)とある。196m。

エレベーターの乗る。最上階で降りる。

61階フロアーだが、そこではなかった。更に上がる。

63F 「ヴァーティゴ」。脇にある狭い階段を上がる。

 

 

 

と、どうだ。周囲に遮るものはナシだ。空しかない。

真っ黒に塗られた壁と階段のステップ。踏みしめながら上がる。

底は、壁のない、サロンバーが広がっていた。

いや、応接セットが数点、白いテーブルマットが眩しい。

食事をしているカップルがいた。

 

「風と語るルーフトップのダイニング」というのが、売り言葉だ。

 

膝から上は、壁が無い。

酔っ払いはここへは来れまい。チャイルドも無理だ。

まさに、大人のダイニングバー。

日本では建築許可はまず下りない。アテンドしてくれた石澤君様々だ。

 

満天の星と眼下の灯りをつまみ代わりに、

ジンベースのロングカクテルを飲む。

なかなか、言葉が出て来ない。妙な感動に、言葉が要らないのだ。

 

バーテンダーは、タンブラーの脇にペーパーナプキンを添えてくれる。

それを目で追いかけてしまう。

なぜなら、客の手に渡った後、そのペーパーナプキンが、

夜空に舞い上がってしまうのではなかろうかと、気になってしまったからだ。

 

屋上の夜風に吹かれながら、口にするどんな酒も、美酒になる。

最高のバンコックの夜を過ごした。

 

 まだ観光客には知られていない、長期滞在者だからこそ、足を踏み入れられる隠れスポット。

バンコク市内を一望できる最上階のフュージョンレストランは、驚くほどにスタイリッシュだった。

 このホテル、1Fにはフロントとラウンジがあるだけ。

だが、地下の中庭には、バンヤンツリーの森を眺めながらのビュフェがある。

 それ以外のホテルサービスは、全ては33F以上なのだ。

 

 1998年のビジネス・トラベラー誌(英国)で「世界のベスト・ビジネスホテル」トップ3になったとか。

 

 

ホテル付けのタクシーを呼んで乗り込む。ゲートを抜けて波止場まで入り込む。

はしびの船体横に車を停めた。

石澤君を船内案内する約束だからだ。運転手さんには、待って貰う事になるのだがと話していると、タクシーの運転手が、

「ここは、タクシーを停めると、タクシー仲間からうるさく言われるんだ」と、嫌がった」。

ならばと、フロントの岩田さんに許諾をもらおうと、一旦、僕は船内に入った。

 

 

適当な場所を教えられて戻ると、運転手の顔が良くない。

なんと!運転手は、気を変えたのだ。

 

 

「待てない、金払え、帰る」

 

タクシーにカウンターはあり、その数字は読めている。

此処には、ドライバーが多数たむろしているのだが、

どうやら、後日、彼らに睨まれるのだそうだ。

ゲートより中には一般のタクシーは入らない事になっているからだ。

 

話によると、200バーツをベースにして、それから幾ら上乗せるかの交渉次第だという。

カウンターの数字は、バニヤンから岸壁までが70バーツであるから、暴利だ。

 

こうして、観光客は、質の悪い運転手に好いように支払わせられるのだ。

ぱしびの若いクルーたちは、街へ出る時には、2キロの先の白タクよりも、此処の白タクを選ばざる得ないのだ。

 

タクシーが待ってくれないという。

石沢君は、気の毒にも乗って来たタクシーで帰らざるを得なかった。

 

最高に楽しい夜を与えてもらったのに、

最後に、石澤君へ、客船を案内する機会を与えられなかったのは、申し訳なかった。

 

 彼のリクエストだった日本酒、「剣菱」を数本買って来てある。

 再び船室にとって返して、贈呈した。僅かな謝礼で、恥ずかしい。

 

本日、マーケット歩き、17479歩だった。

カテゴリ:アジアクルーズ日誌

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