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アジアクルーズ日誌

21日目 寄港地 バリ島 ベノア

投稿日: 2020年11月8日

20110213 バリ島 ベノア

7時40分、バリ島ベノア港に接岸。朝食後に体感温度を測るためプロムナードデッキに出て見ると、雨がぱらついていた。

曇りもしくは雨と言われていたが、スコールがあっても当然の国だ。気温は27℃だが、日中は30℃にはなりそうだという。

パッセンジャー・ターミナルは、下船口の正面だった。頭にバンダナを巻いた、あの独特のバリ島の衣装が忙しく動き回っている。ターミナルの奥にシャトルバスの尻が見える。鄙びた漁村の一角が客船や遊覧船の船着場といった感じ。モーレアやボラボラを予想していただけに、観光に汚されていない素朴な港を目にしてホットする。

ターミナルにある土産店で、美子さんは、大柄な黄色いサックドレスを手にして居た。シャトルバスの時間だと、後ろ髪を引かれる思いで、彼女は乗り込んできた。

車窓から見る風景は、何処かで見た同じモノ。何処だろう。そうだ、ナンディから中心街に向かう道によく似ていた。道の端には、水道菅だろうか、なにやら生活インフラとなる太い長いパイプが敷設され、何処までも続いていた。

バリ島を蓮の花にたとえるならば、蓮の茎を持った手元辺りが港で、左右が海の細い道を北上している。右手の公園で、レフをかざした男が目に入った。撮影だ。カメラを構えた男の先に、若い男女が抱擁してキスをしている。ムービーではない、スティール写真である。こちらもスナップを撮ろうとしたが、間に合わないうちに窓外に消えた。

稲作の農業が主体の島だというが、木工工芸が盛んなのか、制作忠の大型の家具類が何軒も目に入った。

およそ30分でプラザ・バリに着いた。周辺は、まだ商店街でもないし、バリらしい町並みもない。なるほど、大型バスの駐車場は、商店街には見つけにくいのだろうと勝手のそう思った。

免税店は、中庭が広く、やはり開放的な気分にさせられた。幸い、日射しも強くなって、尾は南国バリ?らしい。今クルーズでは最南端となる。

 

息子たちのシャツ類を見て回った。店員の日本語はグアム並みに上手い。しかし、どうやら、こ

こは、日本人観光客が常客なのか、Lサイズの在庫が極端に少ない。売れすぎて、SとXXLだらけ。南国タイムのだらりとした経営なのか、在庫管理がアバウトなんだろう。販売の機会を逸していることが伺われる。孫のシャツも含め、数点を決めてリュックに詰めた。

菅井夫妻とは館内で、はぐれた。さて、歩こうかとバスの入って来た入口の反対側に右折した。市街地だからだろうか、舗道の敷石は割れているか、傾いている。そうでなければ側溝のコンクリートが落ちて、穴が開き、車道に出て歩くことがずっと続いた。

 

頭に描いていたのは、免税店を挟んだ2本の道を北上すれば、大きな横道にぶつかるということだ。そのT字路手間には、右手に警察署があること。T字路を左折した二本目が、バリの繁華街ラギャン通りの入口であるはずだった。

 

しばらくすると、菅井荘輔さんが道に突然現れた。待ち伏せていたのだ。このまま、続いてくるものと、妻に任せて歩をゆるめないで歩き進んだ。ところが、後ろから妻が追いかけて言うことには、このまま歩いても何も無いし、疲れそうだから帰ると美子さんが言いだしたそうだ。彼らは、バスで港に戻って昼食を取るとのこと。

 

我々は、ドンドン歩いた。10時35分から歩き出して、20分は歩いた。何も無い。むしろ、寂れた郊外の道のようだ。右からの道はあるが、左へ抜ける道が1本も出てこない。

 

途中、JTBの日本支社もあった。歩き出した道は、ラヤ・クタ通りで間違いないのだ。の若者たちがたむろする店先では、我々を指差しながら、鶴首してなにやら相談し始める。やがて、偵察担当役のバイクが、反対車線からUターンして、我々の風体をチェックしに来る。こいつらに囲まれたら、有り金はいくら持って行かれるかと咄嗟に考える。3000円を両替した30万ルピアと米ドルが80ドルほどだ。デジカルカメラは2台獲られることは覚悟しなくては、な・・・・・・今日撮ったカット数は、まだ少ない、と妙な安堵感もあった。妻は、やたら、足を止めて花を撮っている。

僕は、周囲に目を配りながら、先を急いだ。

 

それでも、目標のラヤ・パンタイ・クタ通りは出てこない。さすがに暑さと歩き疲れで、踵が上がらない。妻の膝はもっと危ないかもと、ビルの守衛に訊いたが、チンプンカンプン。諦めて歩く。

 

再び、守衛の姿があった。その隣りにいた若者に英語で尋ねた。地図の何処に我々はいるのかと。・・・・・・。

英語で訊いた、日本語で返ってきた。

 

「ドコヘ、イキタイノデスカ?」と、逆に訊かれた。日本語で返って来た。ラギャン通りだと言うと、一瞬驚いて、守衛の目を見た。・・・・・・

「ハンタイニイマス。セナカノホウ」と指指した。唖然とした。

汗もどっと出て来た。日本語の声がした。振り返ると、日本の女性だった。

その屋敷は、「ワタベ」と書かれたウエディングホールだったのだ。

タクシーを呼んで貰えないかと頼む。

 

若い男が「アンゼン、ブルーのニッサンタクシー、デス。イマ、ヨビマスヨ」と言って、中に入る。

僅かだが、チップを渡す。

彼は、中から出て来た日本人女性を送り届けるために、ライトバンで何処かへ走り去った。空のタクシーも通り過ぎていったが、辛抱強く待った。

 

どこで間違ったのか、ツアーデスクが配ったマップをまじまじと見直した。

マップの不親切が、徒になった。北へ歩いていたのだ。

 

それからまた長い時間が経った。反対側道路から、Uターンを使用としているブルーのタクシーがいた。地獄で仏はオーバーだが、ようやく戻れる手段を得て、どっと疲れが出た。

ドライバーは、ニコニコしている。

 

砂漠で出遭った隊商のような気持ちだった。

「ラギャン通りの一方通行の出口で降りたい」と頼んだ。

 

クーラーの効いた車内で、これまで歩いて来た道を呆然と見送った。

 

プラザ・バリを左目に通過した。なんと、確かに、出口が反対だったのだ。

埃っぽい斑な商店が出て来た。渋滞にもなった。ようやく、クタの繁華街に来たのだ。

ドライバーは、目的地に着いたぞと窓の外を指さした。メーターは、約18000ルピアだった。チップを入れて、2万ルピア渡した。

「ツイリマカシー!!」

「サマサマ!!」ドライバーは、破顔になった。

 

思ったほどに繁華街ではない。

マレーの通りと変わらない幅だ。女性の憧れの通りのようには、まだ思えない。

 

 

十字路を左にとって歩いた。緩やかなカーブを歩いて、土産物屋を歩いた。

土産屋のセンスが、いささか、けばけばしい。渋谷スペイン通りではなく、新宿歌舞伎町だ。舗道に座り込んでいる若者の態度も明るくない。すねた態だ。夜になるのを待っているような、曲者顔が多い。

ハワイの透き通った明るさがない。タイの正直さや微笑みがない。

目は、ミステリー小説を読みすぎた目をしていたし、「混沌」「怠惰」という言葉で言い表せる街だった。

 

時折、歩道に置かれた花や供え物に、宗教心は、形に見えた。

相変わらず、舗道は狭く、凸凹だ。夜の酔客なら、脚の捻挫は当たり前という酷さ。

 

なんだろう、この店のディスプレイの猥雑さは。

やたらに、ポロのショップがあるのが奇妙に映る。

欧米人も夫婦と言うより、若いカップルが多い。映画の見すぎだろうか、どこか蔭のある人物が身を隠すように、この猥雑な街に紛れているように思えてくる。

 

かなり、疲れている、喉も渇いた。

座って冷たいモノでも飲ませないと、妻もへばってしまう。

膝の痛みも相当なモノではないか。

ホテルならば、、、休めるかと探すが、どこも、ホテルとは名ばかりの、とても衛生的とは思えない構えばかりだ。リゾート地という、洒落た海岸通りは、まだ先にあるのだろう。

「ハード・ロック」という忌まわしい文字が出て来た。メキシコのカンクーンで若い店員にVISAカードをスキミングされた事件を思い出す。しかし、ここの名前は、ハードロック・ホテルだ。

横には、スタバがあり、その通りを隔てた向いには、エクセレシオーネ(日本では、ドトールが経営)の珈琲ショップがあった。

兎に角、妻を座らせたかった。

ウエイトレスに、ビールとコーラを頼んだ。差し出されたのは、ボトルと缶だった。

グラスは添えられていない。ビールは、直接、ボトルから飲むのだ。

汗がどっと出てきた。疲れ切っていた。通りを見ると光がまぶす杉田が、この店の中庭は、緑もあったし、石造の瓶に注ぐ、水音が、心地よかった。

背中に日本語の声がした。石場さんだった。

 

スーパーで、懐かしいロゴを見つけた。ポッカだ。ポッカの「菊花白茶」(と日本語表示である)ドリンク缶を買った。菊花なら、疲れを取るからだ。NO1.RTDTEA BRAND となっていたが、意味は不明。シンガポール生産品だった。ビールを買う金は残っていなかった。バリで残った金は、僅かに100ルピアだった。

帰り道はタクシーで走った埃っぽい道を、兎に角歩いた。遠い。何処まで行っても、プラザ・バリは、なかなか現れてこなかった。

 

プラザ・バリに着いた。バスの出発には、少し時間があった。

 スーベニールショップで、コーヒー好きな妻と、長男の嫁たちに、「トラジャー珈琲」を買いこんだ。そして、1階でゆっくりと珈琲を飲むことにした。珈琲フロートを頼む。

 

バスで、帰船した。

ギャグニーから入った途端に、フルーツドリンク500円の文字が目に入った。大阪商人だなあと、苦笑しながら、マンゴジュースを頼んだ。しかし、マンゴをジューサーにかける際、大量のミルクで割っているので、美味くなかった。500円に値しない。

 

本日は、方向を間違えて歩き出したのが、大きな間違いだった。

厚い上に、歩道の歩きにくかったことが一層疲労感を増やした。14803歩。

 

 

夕食は、デッキディナーだった。シャワーを浴びた後なので、風が心地よかった。

憧れのバリ島と言うには、目算外れで、残念な一日に成った。もう一度、映画で思い描くような、リゾート・バリを訪れたいと強く思った。

船は離岸した。

 

 

テーブルを一緒にしたのは、可児さん、村山さん、菅井荘輔、菅井美子、それに我々夫婦となった。

 

雰囲気だけで、何も食欲は無かったが、グリーンカレーとナンを皿に取ってきた。

 

 

ニュースは、30年間のムバラク首相を民衆が倒したことだった。インターネットや携帯電話で民衆を駆り立てたことが大規模な抗議デモを生んだ。エジプト革命が成功したというニュースが連日報道された。憲法が無効、議会が解散雲。軍の最高評議会顧問が   した後、半年後に選挙が行われる。エジプトの歴代の大統領は軍出身であるため、民主主義が継続出来るかどうかが問われる。米国とイスラエルは頭を抱えている。日本では菅直人政権の支持率が19%に落ちた。相撲協会の八百長問題も携帯電話から発覚した。バックに大手暴力団の関与が何処まで白日の下にさらされるか。週刊現代の記者こそ、拍手されるべき勇気だった。

 

クリーシーの第三弾を読もうとしたが、文庫本さえ持ち上げる力は残っていなかった。

ライトを消して寝るしかなかった。

20日目 ジャワ海~ベノア

投稿日: 2019年12月5日

20110212 ジャワ海~ベノア

 

奇妙な夢を見た。定年当日、最後の出勤に会社に出た朝の夢だった。自分だけが、亡霊のように、相手の視界に入っていないのだ。呼びかけても、声が出ていない。知っている顔に遭わなかったのだ。

 

静かな洋上だ。微動谷揺れない。エスカレーターにでも乗っているような静止状態が続いている。そう、いつかのインド洋に入ったようだ。近隣の島々に囲まれているためか、船が停止しているように思える。

朝7時。2日目を迎える航海日、身体は休養を得たようだ。昨夜、シャワーの後に、塗りたくった「ネック&ショルダー」のお陰か、脚の筋肉の張りも和らいだ。しかし、ぱしびに乗船して以来、困ったことが続いている。塩分摂取量は、昼食を抜いたり、夕食のみそ汁、漬け物、味噌和え、味噌焼き等々を外したりして、充分注意しても、平均6.8である。妻が横から言った。

「今日は、昼食も内食にしてね、夕食も和食なら、そうしてほしいわ。クルーズに乗って、東京に居たときよりも、悪くなるなら意味ないじゃあない」。確かにそうだが、今クルーズは、妻のためでもあるのだから、心配させてはいけないのだ。

朝食は、8時になってから出た。

今航海、初めて、シリアルをパン替わりに食べる。オムレツは溶き卵の中に既に調味料として食塩がはっているようだった。目玉焼きも、そういう意味では、慣性で、食塩を振りかけている。今朝は食塩を振らないでと頼もう。

「オムレツは、どうしますか?」エルビンが訊いてくれた。「シオ、ナシで、サニーサイド」。食後の珈琲は、今回最悪の焦げ臭い苦さ。

ヘッドウエイターには、もう何も言うまい。「当船には、コーヒー・バリスターが乗っています。気温や水が変わりますので、それに合わせて常時調整致しておりますので・・・」こう繰り返すに違いない。しかし、どうも納得できない。いかなる気候であろうと、寄港地の水であろうと、日本出港時のあの美味い珈琲を維持、堅持させるのが、コーヒー・バリスターの力量ではないか。水や温度で味が変わるのであれば、素人でも淹れられる。

9時からは、8階のメインホールで、インドネシア・入国オリエンが行われた。2/15の14時から、全員による消火訓練が予定されているという。これは、08年の世界一周クルーズでもにっぽん丸は実施していなかったことだと思う。

9時50分、全防火扉の閉鎖点検のブザーが鳴り響いた。そう、インド洋を過ぎた後の、イエメン海賊対策の時のように、このエリアもスリランカ以東の海域は、海賊の出没する場所だったのではなかろうか。

 

パソコンを持ち出してライティングルームに向かった。残念なことに、机は三席とも埋まっていた。仕方がないからと、ピアノラウンジの窓際に座って打ち出した。ウノの時間が来たようで、同じ7階のラウンジへ移動した。

ジャイカの鈴木孜さんが講師。「インドネシアの自然と人々」5回のシリーズの初日である。

ドイツの林学というのは、「1本の木が生長する。その成長して伸びた分だけを伐る。そして、またその成長を待つ。丁度、元本を損なわずに、利率を楽しむ。恒(久持)続林思想というものだ」そうだ。インドネシアの国土は、スマトラからパプアまで、海洋面積を含めると日本の5倍もある。米国の東海岸から西海岸までの幅だと言われるとあらためて驚かされる。衛星写真で数えたら、17000ではなく、18110島だったという数字が出ている。3000の民族で250の言語、そして人口は世界第4位の2億3000万人もいる。宗教庁や宗教警察もあるほどに宗教問題が多発する国だが、人口の76%は、イスラム教徒で、ラマダンの時期には、マクドナルドの店などは気遣って、窓硝子にも目隠しをするそうだ。

インドから稲作が伝わり、それに伴いイスラム教徒が増え、そして、宣教師がキリスト教を普及させたが、元々ヒンズー教のジャワ人はバリ島へ動いた。

 

自分が赴任したのは、生物多様性保全協力の企画調査員としてインドシナ政府の林業部門、生物多様性部門を診るためだった。此処には、海の公園と山の公園がある。国立公園の管理は、米国のイエローストーンのように、底地は国有地で守られているのが基本なのだが、日本は住民に移転を迫ることもせず、景色が守られるなら、と国立公園を管理してきた。インドネシアも住民を追い出すことなく管理できる施策を学びたいということだった。

ウランバートには、7種類のカラスがいるし、東京都のカラスは、多すぎるが、実は、

ジャマイカにはカラスがいない、動物園の檻にカラスがいる国です、と鈴木さんが言う。

人々は屋台での食事が多く、その食べ屑は鶏と山羊が食べる。その鶏や山羊は、再び、サテアヤの串焼きになって人の胃袋に戻る。見事な食物連鎖がカラスの餌にならないからだと説いた。

(昼食時間が迫ってきていた。話は省いて・・・)

環境問題を考える時、水道の蛇口の向こう側がどうなっているのかを考えることが重要で、都市の運営レベルを診ることが出来るのです、と一旦、締めた。

次回は14日ということで終わった。

開口一番、船旅をされている方々は、色々な分野で既に成功された方だと思っております、と謙虚な姿勢で話し始めてくれた。それなのに、前列に陣取った方々を含め、よくみると、居眠り姿を鈴木さんに見せてしまっているのは、恥ずかしい限りだった。興味が無いのなら、無理して醜態を見せないで貰いたいものだ、ビジネスの成功者たちよ。

 

昼食は妻だけ出て、僕は病院食だ。部屋では十朱幸代主演の「母への一番短い手紙」テレビ映画が流れていた。銀座のクラブからシンガポールへの出店という件が、今航海にフィットしているからだったのかと邪推した。

 

 

 

こんな中、ムバラク大統領が辞任した。あのカイロのムバラクブリッジ。

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