アジアクルーズ日誌

20日目 ジャワ海~ベノア

投稿日: 2019年12月5日

20110212 ジャワ海~ベノア

 

奇妙な夢を見た。定年当日、最後の出勤に会社に出た朝の夢だった。自分だけが、亡霊のように、相手の視界に入っていないのだ。呼びかけても、声が出ていない。知っている顔に遭わなかったのだ。

 

静かな洋上だ。微動谷揺れない。エスカレーターにでも乗っているような静止状態が続いている。そう、いつかのインド洋に入ったようだ。近隣の島々に囲まれているためか、船が停止しているように思える。

朝7時。2日目を迎える航海日、身体は休養を得たようだ。昨夜、シャワーの後に、塗りたくった「ネック&ショルダー」のお陰か、脚の筋肉の張りも和らいだ。しかし、ぱしびに乗船して以来、困ったことが続いている。塩分摂取量は、昼食を抜いたり、夕食のみそ汁、漬け物、味噌和え、味噌焼き等々を外したりして、充分注意しても、平均6.8である。妻が横から言った。

「今日は、昼食も内食にしてね、夕食も和食なら、そうしてほしいわ。クルーズに乗って、東京に居たときよりも、悪くなるなら意味ないじゃあない」。確かにそうだが、今クルーズは、妻のためでもあるのだから、心配させてはいけないのだ。

朝食は、8時になってから出た。

今航海、初めて、シリアルをパン替わりに食べる。オムレツは溶き卵の中に既に調味料として食塩がはっているようだった。目玉焼きも、そういう意味では、慣性で、食塩を振りかけている。今朝は食塩を振らないでと頼もう。

「オムレツは、どうしますか?」エルビンが訊いてくれた。「シオ、ナシで、サニーサイド」。食後の珈琲は、今回最悪の焦げ臭い苦さ。

ヘッドウエイターには、もう何も言うまい。「当船には、コーヒー・バリスターが乗っています。気温や水が変わりますので、それに合わせて常時調整致しておりますので・・・」こう繰り返すに違いない。しかし、どうも納得できない。いかなる気候であろうと、寄港地の水であろうと、日本出港時のあの美味い珈琲を維持、堅持させるのが、コーヒー・バリスターの力量ではないか。水や温度で味が変わるのであれば、素人でも淹れられる。

9時からは、8階のメインホールで、インドネシア・入国オリエンが行われた。2/15の14時から、全員による消火訓練が予定されているという。これは、08年の世界一周クルーズでもにっぽん丸は実施していなかったことだと思う。

9時50分、全防火扉の閉鎖点検のブザーが鳴り響いた。そう、インド洋を過ぎた後の、イエメン海賊対策の時のように、このエリアもスリランカ以東の海域は、海賊の出没する場所だったのではなかろうか。

 

パソコンを持ち出してライティングルームに向かった。残念なことに、机は三席とも埋まっていた。仕方がないからと、ピアノラウンジの窓際に座って打ち出した。ウノの時間が来たようで、同じ7階のラウンジへ移動した。

ジャイカの鈴木孜さんが講師。「インドネシアの自然と人々」5回のシリーズの初日である。

ドイツの林学というのは、「1本の木が生長する。その成長して伸びた分だけを伐る。そして、またその成長を待つ。丁度、元本を損なわずに、利率を楽しむ。恒(久持)続林思想というものだ」そうだ。インドネシアの国土は、スマトラからパプアまで、海洋面積を含めると日本の5倍もある。米国の東海岸から西海岸までの幅だと言われるとあらためて驚かされる。衛星写真で数えたら、17000ではなく、18110島だったという数字が出ている。3000の民族で250の言語、そして人口は世界第4位の2億3000万人もいる。宗教庁や宗教警察もあるほどに宗教問題が多発する国だが、人口の76%は、イスラム教徒で、ラマダンの時期には、マクドナルドの店などは気遣って、窓硝子にも目隠しをするそうだ。

インドから稲作が伝わり、それに伴いイスラム教徒が増え、そして、宣教師がキリスト教を普及させたが、元々ヒンズー教のジャワ人はバリ島へ動いた。

 

自分が赴任したのは、生物多様性保全協力の企画調査員としてインドシナ政府の林業部門、生物多様性部門を診るためだった。此処には、海の公園と山の公園がある。国立公園の管理は、米国のイエローストーンのように、底地は国有地で守られているのが基本なのだが、日本は住民に移転を迫ることもせず、景色が守られるなら、と国立公園を管理してきた。インドネシアも住民を追い出すことなく管理できる施策を学びたいということだった。

ウランバートには、7種類のカラスがいるし、東京都のカラスは、多すぎるが、実は、

ジャマイカにはカラスがいない、動物園の檻にカラスがいる国です、と鈴木さんが言う。

人々は屋台での食事が多く、その食べ屑は鶏と山羊が食べる。その鶏や山羊は、再び、サテアヤの串焼きになって人の胃袋に戻る。見事な食物連鎖がカラスの餌にならないからだと説いた。

(昼食時間が迫ってきていた。話は省いて・・・)

環境問題を考える時、水道の蛇口の向こう側がどうなっているのかを考えることが重要で、都市の運営レベルを診ることが出来るのです、と一旦、締めた。

次回は14日ということで終わった。

開口一番、船旅をされている方々は、色々な分野で既に成功された方だと思っております、と謙虚な姿勢で話し始めてくれた。それなのに、前列に陣取った方々を含め、よくみると、居眠り姿を鈴木さんに見せてしまっているのは、恥ずかしい限りだった。興味が無いのなら、無理して醜態を見せないで貰いたいものだ、ビジネスの成功者たちよ。

 

昼食は妻だけ出て、僕は病院食だ。部屋では十朱幸代主演の「母への一番短い手紙」テレビ映画が流れていた。銀座のクラブからシンガポールへの出店という件が、今航海にフィットしているからだったのかと邪推した。

 

 

 

こんな中、ムバラク大統領が辞任した。あのカイロのムバラクブリッジ。

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